空手

第4回 さまよえる「手」(Tiy)

2018.06.01

2020.07.15

琉球の歴史において、グスク時代を12世紀から始まるとしているのが多い。その理由は、浦添城の高麗瓦が造られたという時期(12世紀)には、浦添城が明確にグスクとして存在していたことが一つのメルクマールとなっている。しかしながら、7世紀の琉球には国王が存在し、グスク(城)を中心としたグスク国家体制が既に確立されていたのである。
 

 琉球の時代区分 
 琉球の歴史区分は、①先史時代(数万年前~12世紀まで)、②古琉球(12世紀~1609年島津進入)、③近世琉球(1609年~1879年琉球処分)、④近代沖縄(1879年~1945年)⑤現代沖縄(1945年~現在まで)という時代区分を行っている。これは主に歴史学者による時代区分であるが、文化(スポーツ)人類学の視点からすると、次のような時代区分が適切ではないかと考える。つまり、①貝塚時代(数万年前~7世紀)、②グスク時代前期(7世紀~1185年)、③グスク時代後期(1185年~1429年三山統一)、④琉球王国時代(1429年~1879年)、④近代沖縄(1879年~1945年)、⑤現代沖縄(1945年~現在)という区分である。このような時代区分によって、より鮮明に琉球国のそれぞれの時代を浮かび上がらせることができる。
 琉球には4、5万年前から人類が住んでいたと考えられている。そして、『おもろさうし』には、「知念もりぐすく 神降りはじめのぐすく アマミキヨが のだて初めのぐすく」と謳われている。アマミキヨという神が下界に降りて島々をつくり、一組の男女を住まわせた。二人の間からは三男二女が生まれ、長男が王、次男が按司、三男が百姓、長女が大君(国の神女)、次女が祝女(ノロ・地方の神女)の始まりとなった。このときの王を天孫子と称し、25代続いたと言われている。ここで注目されることは、「知念もりぐすく」が琉球の歴史の始まりになっていることである。琉球創造の神は「ぐすく」に降り立ち、このグスクを拠点として国を造り始めたのである。「ぐすく」とは一般的に「城」のことを意味する。琉球王国の創造は「グスク(城)」から始まったのである。このことを明示しているのが『随書』である。
『随書流求国伝』(607年)には、次のような記述がある。
 随書卷八十一 列傅第四十六 東夷 流求國
流求國、居海島之中、當建安郡東、水行五日而至。土多山洞。其王姓歡斯氏、名渴刺兜、不知其由來有國代數也。彼土人呼之為可老羊、妻曰多拔茶。所居曰波羅檀洞、塹栅三重、環以流水、樹棘為藩。王所居舍、其大一十六間、琱刻禽獸。多鬥鏤樹、似橘而葉密、條纖如髪、然下垂。國有四五師、統諸洞、洞有小王。往往有村、村有鳥了師、並以善戰者為之
                                   (以下省略)

 この『随書流求国伝』から7世紀の琉球の姿を明確に描き出す重要な記述が多くあるが、その中から次の8つの特筆すべき事項を指摘しておきたい。

 8つの特筆すべき事項 

 まず第一に、7世紀の琉球には国王がおり、国家組織ができあがっていたということである。その当時の国王の名前まで分かっている。国王の名は「可老羊」、その妻は「多拔荼」である。その国王の下に、帥(行政大臣)、小王(知事)、烏丁師(村長)、村民というピラミッドの社会国家が形成されていたことである。
 当時は国王は一人だけでなく、それぞれの地域で国を形成し、それぞれの山々を治めていたことがわかる。これらの国王はそれぞれのグスクを形成し、グスク時代前期(7~12世紀)の歴史を作った。グスクを形成するということは、そこには戦いがあることを意味している。12世紀頃には300を超える多くの按司たちがグスクを形成し、繩張りを争って激しい戦いを繰り返していたのである。
 第二に、当時の戦いの武器について、「刀、鉾、弓矢、槍のようなものがある。そこには鉄が少なく、刃は皆薄く小さい。多くは骨や角でこれを補っている。」と記されている。刀はあるが、ほとんど刃が薄くて小さいとあるように、鉄が生産されない琉球には刀といえる程の刀剣はなかったのである。このことが、空手の源流である「手」の出現に深く関わってくるので、非常に重要な項目である。
 第三に、それぞれの国には軍隊があり、戦の方法も口舌戦から始まり、代表戦に移り、勝てないとわかると一群皆が逃走し、その後詫びを入れて和解をする、という皆殺しのための戦いではなく、力のあるものが勢力を拡大していくという目的のためであり、従って、なるべく双方に大きな被害がないような戦いの構図になっている。このような戦いの方法は、後に触れる「おもろさうし」からも窺い知ることができる。
 第四に、国家組織としての財政と慣習法による掟が存在していたことである。「税というものがなく、事あるときに一般的に税を課す。刑を用いるもまた、よるべき律がなく、皆その時々に科を決める。罪を犯すものは皆鳥丁師なる村の長が決め、これに伏さないものは王に上請する。すると王は臣下をして議定せしめる。獄に枷や鎖がなく、ただ繩で縛るだけである。死刑をするには鉄槌をもってする。長さ一尺余り、頭の頂から刺して殺す。軽罪は杖を用いる。」という表現は、国家としての重要な要件である財政と治安維持のための刑罰法という習慣法の掟があったということである。
 第五に、塩を造る技術が既にあったこと、酒を造る技術があったこと、琉球の歌と踊りが当時からあったことが明白になったことである。現在も沖縄には、海水からミネラルの高い塩を造る伝統技術が継承されている。また、酒を造る技術は、現在も琉球の「あわもり」として独特な技法で有名ブランドとなっている。歌については、琉球音階という独自の音階を有し、これが琉球民謡・三味線という楽器にのって歌われるという古来の文化が現在も継承されている。踊りについては、「女は腕をあげて手を揺るがして舞う」とあるように、琉球舞踊なるものが現在も沖縄伝統文化財として大事に継承されており、また、腕をあげ、手を揺るがして踊る踊りは、沖縄独特の「カチャシー」といわれるものであり、現在も非常に人気のある沖縄独自の踊りでもある。
 第六に、「土は稲、あわ、きび、麻豆、胡豆等によろしく」とあるように、当時7世紀には既に稲作がされていたことである。グスク時代12世紀になって稲作が始まったと考える者が多かったが、しかし、この記述からそれは7世紀である事が明白である。しかも、米麹を醸して酒を造ったのであるから疑う余地はない。この時代にこれだけ多くの穀物などが生産されていたということは、この時代には既に農耕技術が発達し、土地や穀物の争奪と権力闘争が始まっており、だからこそグスクが各地で誕生したことを意味している。
 第七に、「その俗、山海の神につかえ、祭るに酒肴を供える。争い戦って人を殺せば、すなわち殺した人を神に祭る。」とあるように、琉球人は、山や海に神が住んでいるという自然崇拝の思想が当時から形成されていたことである。これは沖縄独自のニライカナイ思想にも結びつく。そして、殺した人を神に祭るという儀式は、各グスクや集落において神がまつられた場所があり、信仰の行われる聖域があったことである。後にこれは嶽と呼ばれるようになり、現在でも信仰されている。琉球のグスク城内やグスク近くに嶽が存在するが、何故グスクと嶽が結びついているのかという疑問に対する明確な回答がこの記述に現れている。
 第八に、「隋の楊帝、流求を攻め城を焼き男女千人を虜にして帰る」という記載がある。ここで重要な点は、「城を焼き」と記載されていることである。つまり、琉球には609年には城(グスク)が存在していたということを物語っている。従って、グスク時代が7世紀には既に始まっていたということができる。その当時のグスクは、三重の城壁を持ち、三重の堀には水が入っている。王宮の王室には鳥の彫刻が施されていた、という近代の城にも見劣りしない、しっかりしたグスクであったことが分かる。
 このような明白な資料があること、また多くの遺跡から10世紀のグスク時代の土器が出土していることなどを勘案すれば、7世紀から12世紀までを「グスク時代前期」、12世紀から15世紀の三山統一までを「グスク時代後期」と位置づけることができる。


グスク時代の象徴ともいえる「中城城跡」及び首里城(中山)と覇権を争って戦った「今帰仁城跡」(北山)。

 
 野村耕栄(のはら・こうえい) 

沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。

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