空手

第7回  さまよえる「手」(Tiy)

2018.09.01

2020.07.15

18世紀の終わりに頃から19世紀初頭に、中国武術の一部が琉球に伝播された。この中国武術は、琉球の武術「手」(Tiy)と大きく異なる拳法であった。これまで琉球で7世紀にグスク時代の戦いの武術として誕生した正拳による一撃必殺の殺法に対し、この中国拳法は、開手による掴みを主たる技とする武術である。
このように琉球の「手」(Tiy)と大きく異なる拳法が中国からやってきたということで、この中国拳法を中国・「唐」(とう)の「手」(Tiy)と呼んで従来の「手」(Tiy)と区別したのが、「唐手」(Tudiy)なのである。

 

 「唐手」(Tudiy)の時代 
 7世紀「手」から始まったグスクの戦いの中で誕生した「手」(Tiy)が800年以上に亘って続いたグスクの戦いで、様々な農具や漁具を使った古武術と素手による「イリクミ」の術である「手」(Tiy)の術を大きく発展させた。さらに琉球の武術として確立された15世紀には、多くの按司たちの武将の名前を付けた「棒樹」「サイ術」「トンファー術」「手術」などが型として秘密裏に伝承されていった。そして、15世紀から戦いのない平和な琉球の歴史が始まり「守礼の邦」となってから、ますます武術の「型」が各地に広まっていったのである。一般に武術の「型」というものは殺し合いの戦乱の時代の最中には発展せず、その戦乱の世が治まって平和になって発展するものである、と言われている。
 さて、「唐手」(Tudiy)とは何か。琉球の「手」(Tiy)が確立された数世紀も後になって、中国から伝播したのが中国拳法であり、これを「唐手」(Tudiy)と呼んだ。これを初めて伝えたのは、首里手の佐久川親雲上であった。彼は琉球王国の護衛官で「手」(Tiy)の名人であった。彼が18世紀末に中国に渡った時に中国拳法の技を琉球に持ち帰って伝えたのが、「唐手」(Tudiy)の始まりとなったのである。ここから「唐手」(Tudiy)の時代は始まる。
「唐手」(Tudiy)と呼ばれる中国拳法が琉球に伝来されたことについて、『沖縄一千年史』には、「沖縄固有の武芸田舎の舞いなるものは唐手発達前にありて古より著名の武術家を出したけれども、唐手の名の判然世の中に知れ亘りたるは、赤田の佐久川にして近代化に属す。とあれば尚こう時代までは唐手の名はなく、新奇の組合術として広く世に行きわれざりしなるべし。」と記載されている。
 つまり、武芸である田舎の舞方「手」(Tiy)は唐手発達前から固有の沖縄の武芸家を輩出したこと、唐手が世の中に知れわたるようになったのは首里赤田の佐久川寛賀親雲上の時からであること、さらに「唐手」(Tudiy)というのは、尚灝王時代(1787~1834)まではその名前はなかった、と述べているのである。このことからして、古来より19世紀初頭まで沖縄では空手は「手」(Tiy)と呼ばれており、「唐手」(Tudiy)が沖縄に伝播し一般的に認知されたのは、尚灝王の後半(1800年代)の護衛官佐久川親雲上(1733~1815)の頃からということになる。唐手佐久川親雲上は尚敬王(1713~1751)の治世に生を受け、尚穆王(1752~1794)、尚温王(1795~1802)、尚温王(1803~1804)、尚灝王(1804~1824)の四代に亘って生を全うした琉球の武人であり、国王の護衛官であった。この佐久川寛賀が始めて中国拳法の技法をもたらしたが、このときから「唐手」(Tudiy)という言葉が生まれたのであり、それまで存在したのは、琉球古来の「手」(Tiy)のみであった。
 ここで、『沖縄一千年史』で記載されている「沖縄固有の武芸田舎」の舞方なるものは唐手発達前にありて古より著名の武術家を出したけれども、・・・」という記述の「舞方」という表現について触れておく必要がある。この舞方は「メーカタ」(Mehkata)と読む。「手」(Tiy)を実演する事を「舞う」という。「手グヮーモウラシティンミユン」と言うと、「空手の演舞をしてみせよう」という意味であり、「モウイ」は踊るという意味でもある。つまり、「舞」も「踊る」も「モウイ」というのである。
琉球舞踊で三味線、太鼓、笛等が曲を演奏するがこれを地謡と呼ぶ。この地謡に合わせて踊る踊り手が舞方(mehkata)と呼ばれるものであり、一般的には舞方は、琉球舞踊の舞方ではない。明らかに武術を使う人「手チカヤー」(「手」を使う人)の舞方である。どうして、「手」(Tiy)を使う武士に舞方という表現を用いたのであろうか。
 7世紀から12世紀のグスク前期の戦いの中から編み出された琉球の古武術や手術は、12世から15世紀のグスク時代後期には各グスクの武士の間で多くの殺傷の武術が使われるようになり、独自の武術の型が形成されていった。しかし、琉球王国が誕生した15世紀から戦いのない平和な琉球へと変貌した。この次期に多くの武術の型が内々に広まったのである。実戦が無くなった武士たちにとって、この秘伝武術を鍛錬するには型やイリクミ(実戦組手)を鍛錬する方法しかなかったのである。
そこで型が発達することになる。この型の発達と武術の秘伝性が薄弱になるにつれて、出現したのが「手」の舞方である。
 琉球は、昔から地域の五穀豊穣を願う祭りが盛んな島である。三味線の音色に合わせて、民衆が車座になって歌を唄い琉舞を踊り、カチャーシーを舞う。この中で見逃せないのが「棒術踊り」と「手の舞方」である。棒術踊りは5人一組でチームを作り各部落ごとに代表が選ばれる。前棒2人、後棒2人、中1人の5名のペアーが繰り出す棒術はグスク時代の武士の戦いを再現した勇壮な踊りである。鉦鼓鐘と笛がその踊りをリードし、勇ましいかけ声と気合いで棒を打ち合い、払い合うのである。棒は4から6尺棒である。
 棒術が終わると、巻き踊りが始まり、手の舞が始まる。手の舞はいわゆる「手」グスク時代の武士の「手」術の再現である。軽く「手」の型を演舞しながら「手」の型を続ける。すると、我こそはと思う者が立ち上がり、この踊り「手」に挑戦する。戦いを挑むのである。二人は踊りながら突き蹴りを放ち、相手を攻撃する。そのうちに一人が降参し、別の者が挑戦する。これを何度か繰り返して、手の舞を閉めるのである。酒に酔って、たまには喧嘩になりそうな時もあるが、これはあくまでも余興でやっている「手」の舞方である。この祭り行事は300~400年も昔から村の伝統芸能として各地で継承されているのである。「舞方」は踊りだけではなく、琉球武術「手」(Tiy)の舞方もあるのである。


グスク時代の棒術を再現する沖縄宮古市野原の棒術踊り
 
 
 野村耕栄(のはら・こうえい) 

沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。

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