空手

第17回さまよえる「手」(Tiy)

2019.07.01

2020.07.16

 唐手術が沖縄から日本本土に渡った時期は、丁度大日本帝国が日清・日露戦争に勝利し、さらに軍国主義を強めながら海外進出と富国強兵を高らかに叫んでいる時期であった。
そして、その唐手術を日本本土に普及させようと熱心だった人々が、柔道家の嘉納治五郎、日本海軍将校の八代六郎・山下義昭・佐藤法賢・漢那憲和等の柔道家であったことが重なって以後の沖縄唐手術に大きな変革をもたらす結果となった。

 

 沖縄唐手術の本土伝播 
 沖縄唐手術の本土伝播は、1922年(大正十一年五月)、講道館において、富名腰義珍、儀間真謹の両氏が、「クーシャンクー」と「ナイハンチ」の型を紹介したときに始まったとするのが、通説である。この演武会は、当時の大日本体育協会名誉会長・嘉納治五郎(講道館長・IOC委員)が、文部省主催の第一回体育資料展覧会を開催するに当たり、沖縄唐手術の史料紹介を東京高師教授・金城三郎(沖縄県出身・東大卒)を通して依頼したことによるものだとされている。
 沖縄の唐手術について、海軍将校・八代六郎から聞かされていた嘉納治五郎が、その実態について非常に興味を持っていたため、特別な取り計らいがなされたものと思われる。そこで金城教授を通して、沖縄県唐手研究会からの要請という形にして、沖縄県の学務課を通して、金城教授が嘉納名誉会長(前東京高師校長・現筑波大)に、その実現方を依頼したという形にしている。
 沖縄県側の推進者は、唐手研究会代表の富名腰義珍(元沖縄県立松山女子小学校教師)であった。沖縄唐手術の史料展示会場には、東京女子高等師範学校講堂(現御茶水女子大学)があてられ、その解説役には、沖縄から上京してきた富名腰義珍氏が当たったものの、参観者が予想以上に少なく、新聞報道も極めて低調だったようである。
 それは当然のことであった。唐手術について資料でいくら説明しようとしても、そこには限界があり、唐手の実態を伝えることはほとんど不可能であることは、嘉納治五郎自身も十分承知のことであった。嘉納は唐手の演武を是非この目で見たいという熱望があった。そこで嘉納館長は、金城教授を通じて、富名腰義珍に対し、沖縄唐手術を講道館で公開演武させてくれるよう熱心に懇望したのである。
 嘉納館長は学生時代から日本柔術を修業し、中国拳法の歴史や技法についても相当の知識を持っていたから、唐手と柔道の違いは何か、乱取用の形があるのか、唐手からなにか柔道に役に立つ技がきっとあるに違いない、等という大きな期待があったのである。

 

 嘉納治五郎が説明を求める 
 後日、嘉納治五郎は、富名腰義珍・儀間真謹の両氏を東京下富坂町の旧講道館道場に招いて、沖縄唐手術の型並びに約束組手の紹介演武会を催した。下富坂の旧講道館道場は、明治39年に改築され、207畳敷であり、その日は講道館柔道教員養成所の学生を始め、多数の門人で埋め尽くされていた。嘉納館長の指示により、正面左側には、在京有段者や柔道教員養成所生徒らが居並び、右側には高段者、招待者、報道関係者などの席が設けられ、総勢二百名にのぼる武道家が参集していた。この日の演武会では、富名腰義珍が「公相君」の形を披露し、儀間真謹が「ナイハンチ」の形を披露したあと、両者で形の分解解説を行い、次いで約束組手形十三本(上・中・下段)を紹介した。
 それが終わると、嘉納治五郎が師範席から立ち上がり、永岡秀一指南役と共に袴の股立を取り、型の運足法や組手の要領について説明を求めた。袴に身を包んだ者が、唐手を教授して貰うために、しかも講道館の館長でありながら、その威厳もかなぐり捨てて門下生数百名が見守っている面前で、琉球の唐手家・富名腰義珍の前になりふり構わず、袴の裾をまくり上げて進み出したのである。
 さぞかし、見ている聴衆は一瞬ただごとではないことを察したに違いない。マスコミの者も驚いて、これを大きく報道した。嘉納治五郎は、型の順序や組手の動作を示しながら、「こう構えると、この角度からは突きや蹴りは入るまい」「この角度から入ってくる突きは、こう捌くのは本当ではないか」「その捌き方は、重心が一瞬不安定になり、反撃の間が遅れてしまう」「一人の敵を相手にする場合は、肘で捌くよりも、こうして流した方が有利であろう」などといろいろな角度から、次々とコメントし、説明を求めたのである。
 当時の講道館は、日本武道・柔道の本拠地であり、その代表者たる嘉納館長と永岡指南役が、袴の股立をとって、攻守の理合を実演して見せたので、新聞各社ともこれを大きく取り上げ、忽ちのうちに東京市民の話題の種となった。
 日本本土ではかつて見たこともないその独特な沖縄の武術である「唐手術」なるものを目の当たりにして、日本武道界の頂点に立つ柔道の講道館館長・嘉納治五郎は、強烈な刺激を受けると同時に深い感銘を覚えたのである。嘉納治五郎はその場で富名腰義珍に対し、しばらくのあいだ講道館で柔道の師弟たちに唐手術を教えて貰いたい旨の要請をしたのである。

 

 明正塾に身を置くことに 
 演武会が終わると沖縄に帰郷するはずであった富名腰だったが、講道館演武会の模様が新聞に報道されると、その記事を読んだ八代六郎大将(元海軍大臣)をはじめ、いろいろな人から演武の申し入れがあり、柳生碧橋館・二階堂体操塾・尚侯爵邸などへ招かれて唐手術の紹介をすることになった。こうして富名腰は帰郷の予定日を1週間・2週間と延ばしていくうちに、滞在費が底をつき、旅館を引き払って当時の沖縄県の学生寮であった「明正塾」に移らざるを得なくなったのである。
「明正塾」というのは、唐手道場ではない。これは、沖縄県が県費で建設した沖縄県出身大学生の為の学生寮である。富名腰義珍と共演した儀間真謹が沖縄から東京の大学に進学したため、その寮に住んでいたのである。
 沖縄と東京は1500kmも離れており、当時は沖縄から東京に行くのに船で1週間以上かけていかなければならない時代である。今日では飛行機で2時間だが…。しかも、沖縄の人は当時沖縄の方言をしゃべるのが普通であり、東京弁などわからない者が相当いたので、なかなか本土の人は借家を貸さないという差別も歴然と存在していた時代である。また、東京の借家の家賃は貧しい沖縄の学生には手の届かない高額なものであった。そこで沖縄県育英会が資金を出して、貧しい沖縄県出身者の人材育成のために東京と大阪に学生寮を建設したのである。その一つが「明正塾」なのである。


近代空手道の父・船越義珍。
 
 
 
 野村耕栄(のはら・こうえい) 

沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。

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