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空手の歴史

 

  • 空手の歴史12 -沖縄の伝統古武道 2-

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    沖縄伝統空手古武道

  • 沖縄の古武道を語る時多くは沖縄空手古武道あるいは沖縄古武道と言われ又は表記される。それは沖縄の空手と古武道は常に言われているように「沖縄の空手と古武道は不離一体の関係にある」「沖縄の空手と古武道は車の両輪のようなものだ」と表現されていることに両者の関係を推察することができる。
    現に、沖縄の空手家のほとんどは古武道も修行しており、どこの空手道場でも古武道の武具が備えられているほどである。
  • 沖縄の空手も古武道も術を習得する前の体の鍛錬に用いる道具としてはサンチンカ―ミーとかチーシーなど全く同じ道具が使用されている。
    原始的な闘争術として進化論的に考察すれば最初は素手での殴り合い、取っ組み合いであったろうし、その後に道具を用いることは想像に難くない。しかし沖縄の古武道で使われている武具としては棒、コン、エーク(櫂)、鎌など生活の中で日常的に使われていた物を武具として使われている事から、その発祥はほとんど同じ時期であろう。
    沖縄古武道の中で最も一般的に使用されているのは棒である。棒には三尺、五尺、六尺と長さのちがう棒が使用されているが、普通棒術といえば六尺棒のことである。
    変幻自在に変化攻撃してくる六尺棒術はその破壊力やスピード等において最も恐れられている。
    他流試合は常に真剣勝負にこだわっていたあの本部朝期も語っている。
    「私は多くの格闘技と戦ってきたが、最も怖かったのは棒術であった
    あの棒の伸縮自在さ、スピードは恐ろしくさえあった、なぜなら一直線に伸び縮みして来るスピードに対し、間合いの取りようが難しく厄介だった」と述べている。
  • 沖縄伝統古武道と地方への伝播

  • 古武道の中でも最も普及しているのは棒術である。
    歴史的には空手同様首里の武士階級の間で、一子相伝の秘術であった古武道が廃藩置県によって貴族が職を失い首里を追われそれぞれ田舎に都落ちしていかざるを得なかった。
    現在でも沖縄本島北部の田舎に多いヤードイ(宿取り?)と呼ばれる集落が農村でも平野部ではなく、はるかに険しい山間部に新しく開墾された小さな村がある。
    その集落は都落ちしてきた首里の武士階級の人達が古くから農民の生活している場所から離れた所有者の居ない荒地を開墾して創り、新しい集落を作り、移住した集落である。
  • 農業などの経験など全くない武士達が荒地を開墾して新しい集落を作り、生活を営んでいくのだからその苦労は精神的に肉体的に想像を絶するものがあったと思われる。彼らはそれまで学んできた学問や武術、あるいは踊などを貧しいながらも人口の多い旧村落に行き教え伝え生活の糧にしていたと伝えられている。
    現在も中部以北の村々に伝わる棒術が「村棒」と呼ばれ現在しているのもその歴史の証左だと思われる。
    現在その村棒と呼ばれる棒術は戦う武士の装束をした二人、あるいは3人で互いに相戦う勇壮な催しの一つとして村の祭りには欠かせない演目となっている。
  • 代表的な棒術(棒踊り)としては
    読谷村宇座の山内棒、前田棒、佐久川の棍、周氏の棍、浦添の棒、北谷屋良の棍、瀬底の棍、添石の棍、米川の棍などがある。
    特に秋の豊年祭(旧暦8月15日)には、集団演武も含め村中の人々が集まり振わったと記録されている。
    村落の中央広場で演じられる棒術は村の発展や子孫繁栄の豊年満作の祈願と感謝の念が込められていた一大行事であった。
    民俗芸能研究の第一人者であった當間一郎氏は「今日各地祭などで古くから盛んに演じられてきた。村によっての棒の演武は棒術あるいは棒踊といわれ人気を博してきた」とかたっている。
  • 参考資料
     − 沖縄空手古武道辞典(高宮城繁、新里勝彦、仲本政博、編著)
     − 沖縄伝統古武道(仲本政博)
     − 沖縄空手道の歴史(新垣清)
     − 沖縄空手道「手」(苛原耕栄)
    参考サイト
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  • 空手の歴史11 -空手-

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    「唐手」が「空手」の文字になり一般に広まっていくのはそれから24年後の1929年(昭和4年)、慶応義塾大学唐手研究会が発行した機関紙による功績が大きい。その頃の慶応義塾大学唐手研究会の師範をしていたのは船越義珍で、その機関紙でそれまで散発的に用いられてきた「空手」を般若心経の「空」の概念から「唐手」を「空手」に改めると発表したのを機に、広く一般化していった。

    その後沖縄でも1936年(昭和11年)10月25日、那覇市で琉球新報主催による「空手大家座談会」において「唐手」から「空手」に改称することが決議され、以後の表記が全て「空手」となった。

    こ※琉球新報の2006年9月23日の記事によると、まぼろしの記事と言われていた「空手大家座談会」の記事が沖縄公文書館で見つかったとのニュースが伝えられている。
    参考資料
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  • 空手の歴史10 -沖縄空手の「型」-

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    修行を重ねた先人達はその一撃必殺の破壊力を身をもって知っているが故に「空手に先手なし」の様に闘争を強く戒めている。
    しかしその掟破りの先陣を切って辻町で「掛け試し」を続けて非難を浴びた本部朝基は「体を鍛えるだけでなく実践を前提に考案されたのが「型」である、しかし「型」のみを修行していては体は作れても暴力を前にした時に対応はできない」と主張し辻町その他の実践のなかから「組手」〔彼は変手(ヒンティ)と言った〕を考案し「型」を一歩進めた実践〔暴力〕に対応した「組手」の普及に力を注いだ。

    現在では「型に始まり方に終わる」だけでなく「型」に「約束組手」「自由組手」を合わせて一つにした修行の形が沖縄空手では一般的である。

    沖縄空手の「型」は、各流派独自に体系化され、他からの攻撃や暴力に対しての攻防一体となった無駄のない技が完璧なまでに構築されている。昔の拳聖と称された先人たちや、達人の域に達した現在の沖縄空手の指導者たちは己の体を生きた武器となすべく激しく鍛えながら、沖縄空手の同じ「型」を何千、何万、何十万回と日々繰り返し鍛錬を重ねてきた。体力、忍耐力、精神力を兼ね備えた人格者であり武道家となっている。
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  • 空手の歴史9 -沖縄空手-

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    沖縄空手の特徴としては、古く古伝空手の頃から、先人たちが伝え継承してきた「型」の稽古や鍛錬法を重要視し、組手の練習においては当身(直接攻撃)と掴み投げの使用を採用している。沖縄空手は沖縄古武道とも一体の面があり、多くの沖縄空手道場で古武道の棒術やサイ、ヌンチャクの修行は普通に行われている。武器術や取手術、関節術なども合わせて継承されており、総合的な武術である。ちなみに本土系のスポーツ空手では寸止めを基本ルールとしている。

    当然のことながら、糸洲安恒が学校教育の場に沖縄空手を普及させるに際して、急所攻撃や関節技など、沖縄空手の一撃必殺の技を秘める過激な攻撃技は改良され琉球王国時代の空手とはいくらか異なっている。逆に現在、各流派の道場で受け継がれている沖縄空手の多くはそれ独自の型や鍛錬法などをかたくなに守り継承してきたことにより実践の形で伝えられている。それは伝統を重んずる沖縄空手の担い手の武術家として大きな誇りとなっている。

    古流空手(古伝空手)の先人たちから伝承された技や稽古方法が実践保存されている沖縄空手の流派は、単独組織を維持し本土よりも世界各国に、より多くの支部道場を持ち、世界60ヶ国余に広まっている。世界から「生涯に一度は空手発祥の地・沖縄で修行したい」という一途な思いで沖縄の道場を訪れる空手愛好家が後を絶たないのも現実である。

    沖縄空手の流派には、「沖縄剛柔流・上地流・小林流・少林流・少林寺流・松林流・本部流・沖縄松源流・沖縄劉衛流・劉衛流」などがあり、本土の空手会派とは組織形態が異なる。
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  • 空手の歴史8 -唐手と空手の使い分け-

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    1922年(大正11年)、沖縄尚武会会長であった富名腰義珍(後に船越に改名)が東京で開かれた第一回体育博覧会に招かれ、沖縄出身の一つ橋大学学生の儀間真謹氏と演武を行ったのが沖縄空手の本土へ初めての登場だったという。一方、沖縄空手を本土へ広めたもう一人の雄、本部朝基も当時大阪に在住していた。

    沖縄で本部サールと呼ばれていた本部御殿手の使い手、本部朝基は1922年(大正11年)11月、京都で催されていた、飛び入り歓迎の演武大会に出場し、大観衆の見守る中、ボクシング世界チャンピオンとして一座のスターを張っていたロシア系大男のジョージを一撃で倒し沖縄空手の威力を見せつけた。 それまで柔道家の中でも沖縄空手はまだ未知の武術で「沖縄には、カラテという、すごい破壊力をもった武術があるらしい」という程の空手の認知度だった。本部朝基の見せた沖縄空手の破壊力の凄さは波紋を広げ、雑誌で報道されることにより、沖縄空手を本土の人々に知らしめる大きな役割を担ったことになる。

    東京での船越義珍(旧・富名腰義珍)の初めての演武は、それ程注目もされず報道されることもなかった。

    当時、沖縄出身で松村宗棍の弟子でもあった男爵・伊江朝直氏が、講道館の嘉納活五郎に依頼して演武会を再度、東京女子師範大学講堂で催した。集まった関係者は、嘉納活五郎をはじめ、永岡(十段)、西郷四郎(六段・後の姿三四郎のモデル)、その他、軍人、役人、警察関係者など、総勢300人が集まった。shiro_saigo

    船越義珍を通して沖縄空手を知った慶応義塾大学ドイツ語の粕谷真洋教授は船越門下生となり、大正13年10月15日、船越義珍を正式に学校の空手師範として迎え、日本で初めての大学における唐手研究会を創設したことになっている。事実はそれに先駆け、前記のように沖縄では糸洲安恒により、1901年(明治34年)には、首里尋常小学校で体育の授業に取り入れ、1905年(明治38年)には、沖縄県師範学校をはじめ多くの学校で空手部創設が行われている。

    慶応義塾大学の唐手研究会創設に始まり、翌年は東京帝国大学(現・東京大学)、そして第一高等中学校、学習院大学、東京商科大学(現・一橋大学)、拓植大学、早稲田大学、法政大学と大学を中心に沖縄空手の普及は勢いを増していった。 その当時の沖縄唐手の指導者としては、船越義珍を筆頭に、大阪から東京へ移った本部朝基も大いに活躍した。その他に琉球最後の王尚泰が華族になり、東京在住を命じられて、台東区に住むようになって、その尚家に務めるようになった沖縄出身の空手家も多かった。
    参考資料
     − 「慶應義塾大学空手研究会歴史」
    参考サイト
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  • 沖縄空手の歴史7 -武器禁止令と沖縄空手-

    古武道で用いられる釵(サイ)

    琉球王府における「武器禁止令」

    ※琉球王府における「武器禁止令」は別称「禁武政策」とも言われているが、この章では「武器禁止令」を使用する。

    薩摩藩が「武器禁止令」を課す100年以上も前に時の王・尚真王によってすでに「武器禁止令」は行われている。これは中央集権国家を作り終えた権力者が、自分の国の中から己に反逆者を出さない為の政策と考えられており、あの豊臣秀吉も歴史に名高い「刀狩」を行っている。

    尚真王時代の「武器禁止令」の実態は琉球王国全土から武器を取り上げ、それを首里王府に集め管理するというものだった。 これは琉球王国にとって有事の際に、この膨大な武器を武士が中心となって琉球王国を護るために使用することを目的としていた。 薩摩藩の実施した「武器禁止令」にしても、刀やその他の武器の携帯は禁じたがその保有までは禁じていなかったと、近年の沖縄学の研究者たちは解釈・主張している。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道辞典」(柏書房)
     − 「空手道・古武道基本調査報告書」(沖縄県教育委員会文化課)
     − 「沖縄伝統古武道」(文武館)
    参考サイト
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  • 空手の歴史6 -沖縄空手、その歴史-

    糸洲安恒

    門外不出・一子相伝の沖縄空手の公開

    糸洲安恒は、当時、琉球王府の武術指南役だった松村宗棍に師事して首里手(スイティー)を学んだ。 琉球王朝時代から空手の武術家として活躍し、門外不出の秘伝として琉球の士族の間で伝わっていた唐手を学校の体育の授業として取り入れ、広く一般に普及させた功績の持ち主である。1908年に糸洲安恒が県に提出した有名な『唐手十訓』は、現代でも空手の真髄を表した名訓として尊ばれている。 また沖縄伝統の唐手の型の改良・新しい型の創作に情熱をそそぎ、生徒たちが学習しやすい「平安(ピンアン)の型」を創作、学校教育の場へと普及させた。

    糸洲の尽力によって唐手は、まず1901年(明治34年)に首里尋常小学校で、1905年(明治38年)には沖縄県立第一中学校(現・首里高校)および、沖縄県立師範学校の体育の授業として採用され、広く一般に普及していった。 糸洲安恒の孫弟子・金城裕氏によると糸洲は、口ひげをたくわえた穏やかな人、「温厚篤実な人」と周囲の人々から慕われていた。 それを裏付けるかのように、腕試しに襲ってきた数人の若者を打ち負かしたその日の夜、若者たちの無事を確認して、夕食の席に招待したというエピソードを金城裕氏は師匠から伝え聞いたという。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道辞典」(柏書房)
     − 「空手道・古武道基本調査報告書」(沖縄県教育委員会文化課)
     − 「沖縄伝統古武道」(文武館)
    参考サイト
     − ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/糸洲安恒
  • 空手の歴史5 -新渡戸稲造と武士道-

    新渡戸稲造

    日本人の本質を「武士」に求めた新渡戸稲造

    彼は「武士」の時代が終わり、明治という新しい民衆の時代になり、札幌農学校生の時キリスト教に入信した。1884年、新渡戸はアメリカに渡り敬虔なキリスト教徒として活動する内にメリー・エルキントン夫人と出会い、アメリカ社会に溶け込んでいく。 当時としてはまだめずらしい日本人の彼が受ける質問はまず、「日本人とはどんな民族か」というものだったという。その問いに対して彼は、日本人の本質を「武士」に求め、あの有名な『武士道』を書きあげた。

    すでに日本、アメリカ両国に精通していた彼の著書『武士道』には、表現の難しい「武士」の生き様や誇り、忠誠心・日本人社会におけるその存在理由などが解りやすく書かれている。これは特に欧米人にとって最も分かりやすい「日本人論」とも言える本として大好評を受け現在に至っている。

    この本の中でずばり「武士道」とは何かを、新渡戸は『武士道とは、欧米で言う騎士道と同一である』という言葉で説明している。 この一言で西洋の人々は日本の「武士」と「武士道」の概念をほとんどイメージ出来たのではないだろうか。その「武士道」を極め、貫き通して生き抜く為の心身の修錬の方法として、武道としての「剣道」が重要な存在となった。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道事典」(柏書房)
     − 「武士道」(新渡戸稲造 著)
     − 「日本の戦後史」
    参考サイト
     − 
  • 沖縄空手の歴史4 -日本の武士道-

    武士の主従関係

    戦国時代の武士道

    家柄も高く、鎧兜に身を包み、騎乗のリーダーとして「やぁやぁ、我こそは武田家の侍大将の○○○なるぞ。いざ神妙に勝負!!」と名乗りを上げている侍大将が武士道の鑑ごとき『宣戦布告』をしている最中に、しかもその『宣誓布告』が終わらないうちに「パンッ」。 名もない足軽の放った弾丸一発が、何世代も続いた武士道を生きてきた武士の鑑たる大将の煌びやかな鎧を打ち抜き、戦いの勝敗を決めてしまった。

    武士道の価値観を根底からひっくり返してしまったのが、織田信長と武田信玄の息子、勝頼との決戦である。 新たな殺傷能力が高く、しかも剣道のように長年の修業を必要としない鉄砲の出現により、これまで日本社会の主軸として築き上げられてきた武士と武士道というリーダー階層の人間とそれを支えてきた理念・形・プライドは一発の弾丸でけし飛んでしまった。

    織田信長の与えた衝撃

    history004_02しかし営々と築き上げられた日本の社会構造と盤石な理念の元に練り上げられて定着した人間の内的な誇りや信条、己の人生を支えてきた精神世界の支柱が一発の弾丸ごときで粉々に吹き飛ぶものだろうか? もしもその大将を打ち抜いた弾丸を撃ったのが足軽ではなく、同じ階級の武士であったなら? 同じ武士道を誇り高く生きてきた武士ならば、正々堂々と宣戦布告をしている気高い武士の化身のような大将の胸に遠くから弾丸を撃ち込むことは到底ありえないことであろう。その役を足軽部隊に命令し、なんの躊躇もなく引き金を引かせた男が時代を変えたのだ。 格式高く、何人たりとも跪いた『伝統』という魔物に一人で対峙しそれを蹴散らす度量を持った男・織田信の登場である。

    伝統を否定し、斬新な思考を徹底して実行に移していった織田信長は、歴史を変えるような革命家であり、彼を現代に甦らせても尚、立派な革命家であり得るだろうことは多くの歴史家が表明している。 その当時、「武士の風上にも置けぬひきょう者」や「うつけ者」と言われながら、平然と自分の信念を貫き通した織田信長の存在が、日本の形も精神構造も全てを変えたのだ。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道事典」(柏書房)
     − 「武士道」
     − 「日本の戦後史」
    参考サイト
     − 
  • 空手の歴史3 -武道とは-

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    「武道」の意味するもの

    つまり「武」の字は「戈(ほこ/矛と同義)を止める」という意味を込めて出来た文字だという。つまり戈とは攻撃する武器であり、暴力である。ということは襲い来る危険な矛や暴力を止めるのが武のことであろう。この武が体系化して武術となる。武術は技であり肉体的な世界である。この武術を過酷なまでに修錬していく過程を経て精神世界と一体化した武道へと昇華していく。つまり、武道とは文武両道を求める求道という生き様的な連続性を持った道としての意味を持っていることになる。

    つまり「武」の字は「戈(ほこ/矛と同義)を止める」という意味を込めて出来た文字だという。つまり戈とは攻撃する武器であり、暴力である。ということは襲い来る危険な矛や暴力を止めるのが武のことであろう。この武が体系化して武術となる。武術は技であり肉体的な世界である。この武術を過酷なまでに修錬していく過程を経て精神世界と一体化した武道へと昇華していく。つまり、武道とは文武両道を求める求道という生き様的な連続性を持った道としての意味を持っていることになる。

    あらためて、武道の武を創りだした当時の人たちの胸中を思えば、やはり戈を止めるとなるから、武とはあくまでも攻撃ではなく、守りの意味を強く主張しているという解釈が成り立つ。

    そこを起点として展開していくと、武道・武術・武士は攻撃ではなく防御がその原点であり、沖縄空手の「空手に先手なし」「意地のイジラーティ引き、ティーのイジラー意地引き」と言われている根源的な地場に帰結するのではないだろうか。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道事典」(柏書房)
     − 「沖縄伝統古武道」」(文武館)
     − 「武士社会」
     − 「文武両道」
    参考サイト
     − 
  • 空手の歴史2 -沖縄の伝統古武道-

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    空手と古武道

    沖縄の空手と古武道はその発生はどちらが早いにせよ、大差があろうはずもなく二つで一つであり、同根より生ずるととらえた方がむしろ現段階では無難であり、より真実に近いと思われる。

    古くから沖縄空手を学ぶものは、武器を使用する古武道を同時に学ぶことが当然とされてきた。

    「武器は空手による手足の延長であって、空手と異質のものではなく、長短の武器の使用法や技術を学んでこそ、『手』の全てを理解できるものとされてきた」(『沖縄伝統古武道』仲本政博著)

    もともと一つであるはずの沖縄空手と沖縄古武道が二つに分かれて認識されるようになったのは、やはり、もっぱら素手だけの空手と何かしらの武器を用いる古武道との違いは、武器を使用するかしないかでいつの間にか分類されたと考えられている。沖縄の空手家としてかの有名な本部サールこと本部朝基も、いざ闘いとなれば、自分の周りにある道具を全て利用し、優位に立つように闘いは進めなくてはならないと語っていたという。

    素手のみを武器とする空手

    history002-01b現在、沖縄古武道よりも沖縄空手のほうが圧倒的に多くの愛好者を得ているのは、古武道に比べ、空手の方は武器を準備しなくても手軽に学べるという点がその理由の一つと言われている。
    長年修錬を積んだ沖縄空手の高段者をみると、彼らのなかに古武道を修行していない人はほとんど皆無であるということも事実である。

    人間がまだ多くの動物の中のその一種として生きていた時、多くの強い動物から身を守るために、まずは身の回りにある棒きれ・石・他の動物の牙や角・その他を使用し、素手では抗いようのない敵に対峙したことは想像に難くない。

    このような視点からすると、素手のみを武器とする空手よりも、武器を使用する古武道の方が先に成立したのではと考えられなくもない。

    しかし、沖縄空手側の反論としては「人類が道具を武器として使うのはかなり賢くなってからだ」、「最初はやはり、素手以外になかったはずだ」となってしまう。

    しかしこの相方の見方は、自然発生的な世界の話で、武術とか武道として体系化される遥か以前のことであり、人類の発生からどの過程で武術や武道となったかという、もう一つの見極め方があると思われる。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道事典」(柏書房)
     − 「沖縄伝統古武道」」(文武館)
    参考サイト
     − 
  • 空手の歴史1 -その発生と源流-

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    「手(てぃ)は沖縄独自の文化である」説

    最も有力な根拠となる背景には、古く琉球の歴史の中で、「城時代」と呼ばれている頃から戦国時代である「三山時代」においての歴史的背景である。当時の長い戦乱の時代には、それぞれの戦いの中で武術や武器が生み出されるのは必然的である。特に琉球王国(現・沖縄県)は他の大陸まで1千キロ以上も離れている南海の孤島という地理的条件のもと、尚時代考証としては、いずれの民族も、1千キロも離れた土地を往来する航海術は持っていなかっただろうということである。

    また群雄割拠していた「城時代」に始まり「三山時代」の末期頃の首里王府や貴族武士の中に、手(てぃ)と呼ばれる現在の沖縄空手の源流が発生していたものと思われる。しかし1800年代まで、「一子相伝・門外不出」の秘術として継承され続けたこの「手」は、ほとんど社会の表には姿を現していないのが事実である。その秘密裏に伝えられていた「手」が、やがて首里手、那覇手、泊手と呼ばれる三つの流派に分かれ、これが琉球独自の空手の原型だといわれている。

    歴史的背景を考察の範ちゅうに入れて検証するならば、やはりその国独自の武術として、日本には「剣道」や「柔術」があり、韓国には「テコンドー」、中国には「拳法」がある。そのことからしても琉球独自の武術として、空手が琉球王国内で自然発生したとしても納得のいくことだろう。

    「手(てぃ)が中国の少林寺拳法などと融合して発展をとげた」説

    沖縄で生まれた「手」が中国の武術と融合して出来たものが、現在の沖縄空手の原型という説に関しては、かなり信憑性が高いといわれている。1372年に中山王・察度は中国と冊封と進貢をベースにした正式な国交を樹立し、琉球王朝の大交易時代を迎える。この交易は、日本、韓国、中国がそれぞれ鎖国をしている時代において、目をみはるような貿易国家としての活躍をした。その交易回数はのべ400回前後と言われ、徳川家康が行った「朱印船貿易」が20回前後であったのに比べ、その航跡の大きさに克目せざるを得ない。
    その時すでに300人前後の乗員を有したと言われている交易船の大きさから推察しても、琉球と中国間で行き来したであろう膨大な物資、人、文化などは両国に大きな影響を与えたことは明らかである。中国は明の時代である。北京は琉球に比べはるかに、豊かな文化国家であった。北京において、琉球への冊封使に任命された中国の高官は、さぞや身の不運を嘆いたことだろうと言われている。あの華やかな紫禁城から、それこそ南海の貧しい孤島の琉球への使いである。

    エンジンのない帆船は、春から夏にかけてモンスーンの南風に乗ってはるか琉球王国に渡り、風が変わる冬の北風・ミーニシに乗って帰っ行く。約5~6ヶ月の長旅であり、また無事に帰れる保証すらない危険極まりない旅である。大都会北京の王宮勤めの高官・冊封使は、小さな琉球王国での生活を考え、お抱えの料理人集団や音楽、舞踏の集団までも伴って来琉した。

    その冊封使の集団が琉球王国に滞在している間に行われる饗宴での音楽や舞踏、そして料理などがその後の琉球、沖縄文化の中に深く浸透して根を張っていったことは当然のことである。現在に至っても、そのエキスを濃密に残していることは衆目の認めるところである。

    その交易時代に中国の冊封使集団が与えた、琉球・沖縄文化へのインパクトの中に、唐手(空手)が無かったとはむしろ考え難い。その当時、中国は人類史上稀にみる大河の流れのような、大きく長い戦乱の時代を淘汰してきた国である。

    冊封使一行の中に、少林寺拳法のように洗練された武術を身につけた者が冊封使の警護として、あるいは、演舞者として同行していたことだろう。その中国拳法と琉球古来の「手」が接点を持ち、融合することによって現在の沖縄空手に発展して来たというのがこの説である。現在の沖縄空手の各流派の型を見ると、その名称に中国語が多いのも、この説の証明の一つといえるのではないだろうか。

    「中国伝来の武術である」説

    上記の2つの説を考慮してみると、全くの中国からの伝来であるという説がさして重要視されないのもうなずける。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道事典」(柏書房)
     − 「沖縄空手・古武道グラフ」(守礼堂)
    参考サイト
     − ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/空手道


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