第23回さまよえる「手」(Tiy)


 松村宗棍と与那原地頭代の娘ウメとのカキダメシは、宗棍の左拳によるウメの右乳房への攻撃に対し、ウメの右手の払いから宗棍の顔面への裏拳が相打ちとなった。しかし、乳房を打たれたウメの動揺は大きかった。次も同じように乳房を打たれるのではないかと追い込まれたウメの首が凍り付き呼吸が乱れた。


ウメとの決着

 それでも降参しないウメを見て松村が仕掛けようとした瞬間、立会人となった地頭代の父が「待て!そこまで。…ウメの負けじゃ」と言った。
 相打ちとは言え、松村の左拳の打ち込みがウメの裏拳よりも勝っていたのである。左利きのウメが立ち会いの中で一番得意な左半身になる前の僅かな体位の動きを見逃さずに、ウメが体位を入れ替えた一瞬の隙を捕らえて、松村は先制の突きを繰り出したのである。
 その突きも、通常は水月か顔面の二カ所が狙う急所となるが、ウメの場合は女性のもう二カ所の急所が乳房だったのである。急所が2カ所も多いウメは相当に不利な条件であった。しかも、この4カ所の急所の位置関係は、相手の突きの方向や高さのバリエーションが受けをますます困難にする。顔面と水月であれば、常に正中線をブロックポイントとし、あとは高さだけ気にすればいいが、4カ所となるとそうはいかないのだ。

 左半身になったウメは、松村の右拳をウメの左手で払うのはセオリーである。そして、松村の左拳の突きをウメの右手で払うのも全く正しい受け手である。この時の払い受けは当然ながら外から内に払うことが条件である。そして、ウメは右手で松村の左拳の突きを払いざまに松村の顔面に裏拳を当てるのは理想的な攻めのパターンである。しかし、ウメはこのセオリー通りの正しい払い受けをしたのにも関わらず松村の左拳の突きを乳房に食らってしまったのである。

 果たしてその原因はどこにあったのか。
 相手の突きは、外から内に払うのは鉄則である。この払い受けによって相手は次の攻撃に移る反対側の手による攻撃が困難となるからである。しかし、この鉄則にも盲点がある。それは、半身の立ち方である。この半身が浅い場合(半身が斜め45度以内)は、このセオリー通りで良いが、この半身が深い場合(半身が45度以上)は、必ずしもその通りはいかないのである。このカキダメシの場合、ウメは深い左半身で構えていたことが分かる。

 深い半身の構えの場合、相手の突きを外から内に払う場合にその払う長さが違う。浅い場合は、10センチ未満の払いで十分だが、深い半身の場合は15センチ以上も払う必要がある。そうしないで途中で止めると相手の拳は自分の体側線の内に残り体に当たることになる。従って、深い半身に構えたウメは、松村の右拳を左手で体を少し回転しながら十分に体側線外に払う必要がある。そこに次の動作である松村の左拳による攻撃に対するウメの受けが僅かに遅れたのである。ウメは受けることは受けたのであるが、その受けの動作が一瞬遅れたことになり、その衝撃の為にウメの裏拳は殺されて松村の顔面をかすったのである。

 勝負に勝った松村はウメと結婚した。そして、その後、琉球王朝の役人となるための試験に20歳で合格し、1813年第二尚王統第17代王尚灝王の御側役となり、第18代尚育王、第19代尚泰王と三代に仕えたのである。

東恩納寛量のカキダメシ

 明治30年、那覇手の東恩納寛量が45歳のある夜、那覇市の辻町(遊郭)の馴染みの店で一杯飲んでほろ酔い加減で帰宅の途中に、3人組が寛量に「掛け試し」を挑んだ。「東恩納の武士タンメーか」と呼び止めた3人組の真ん中の大男がいきなり寛量に金的めがけて蹴ってきた。
 とっさに後ろに交わした瞬間、寛量の左蹴りが相手の右上腕に炸裂した。一瞬の出来事で大男は小さなうなり声を上げて、再度体制を立て直そうとして、右腕を引こうとしたとたん「ギシッ」という音とともに激しい痛みが大男を襲った。男は寛量と向かい合ったまま必死で立っていたが、やがて冷や汗と嘔吐とともに気を失いその場で崩れ落ちた。残りの2人が大男が死んでしまったのかと思って抱きかかえているのを横目に、「急所は外した。心配はいらない」と言って立ち去った。
 2人はホッとして「ありがとうございました」と寛量に礼を言った。2人が寛量に礼を言ったのは訳があった。もし、寛量が本気で男の右中段の急所に蹴りを入れていたら、2週間後又は一月以内に肝臓破裂の病気で死ぬ運命にもなったからである。昔の武士は、自らの拳の当たり具合によって、相手がいつ死に至るかを予期していたと言われている。

 「カキダメシ」と言えば、やはり本部ザールーこと本部朝基の右に出る者はいない。朝基は、本部御殿の当主・本部按司朝真の三男として、明治3年に首里赤平村に生まれた。本部御殿は本部間切を領有する大名であり、琉球王朝時代の名門であった。本部は首里手の糸洲安恒、松村宗棍、泊手の松茂良興作に師事した。
 また、親友であった屋部憲通と組手の研究を行った。彼が目指した唐手は実戦に通用する唐手であった、と言っても過言ではない。彼は「自分は、若い頃から辻で真剣試合を始め、何百回となく実戦をしたが、顔を拳で突かれたことは1回もない」と述べている。
 本部朝基の実戦唐手を日本国中に知らしめたのが、1922年京都市で行われた「拳闘対柔道」の試合であり、たまたま大阪を訪問していた本部が友人と京都に出かけた時の出来事であった。その試合の様子が大正14年の雑誌『キング』9月号に掲載されているので、以下要約してみると、次のようになる。

 見出しは「肉弾相搏つ唐手拳闘大試合」となっている。大正11年秋11月、京都市で催された拳闘対柔道の大接戦は日に日に様々な噂を生みつつ、いやが上にも満都の人気を煽り立てた。その人気に気を得てか試合は各組とも肉弾火花の大接戦、自然観衆は演者の一挙手一投足にも、肝を冷やしていた。その試合の最中突然楽屋へ訪れたのは、見るからに田舎爺らしい1人の男。飛び入り試合を申し込んできたのである。「あなた、柔道家ですか」と聞いても「いいえ」。「では、拳闘家ですか」と聞いても「いいえ」と答える翁が言った言葉は「何でもありませんが、あんな試合なら私にも出来そうです」であった。「柔道でもない、拳闘でもないという、まさか田舎力士じゃあるまいね」と言い、何でも良いから飛び入りしたいと言うからには気狂いでない限り、多少武術の心得はあるんだろう、ということで出場させることになる。そして、試合の規則はご存知ですか、と聞かれた翁の答えは驚いたことに、「知りません」であった。試合のルールも知らないで、飛び入りしようなどと考える翁とはいったいどういう人であろうかと主催者は不安になったであろう。
 そして、そのままの普段着で出場しようとした翁に、主催者は柔道着を準備した。その頃唐手着等という重宝なものはなかったのである。そして、主催者が聞いた。「ところで、あなたは拳闘と試合をするのですか、それとも柔道とやるんですか」。これに対して翁は「相手は何方でも構いません」と答えたのである。




本部朝基

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