空手

第10回さまよえる「手」(Tiy)

2018.12.01

2019.11.11

沖縄一中ストライキ事件の引き金となったのは、杣山(そまやま)開墾事件、人頭税廃止運動、そして海外移民運動である。この三大事件は、日本本土の植民地と化した琉球人の心を捉え、純粋な若い学生たちの正義感に火をつけ、農民たちの怒りを爆発させ、日本政府に立ち向かう沖縄人民の姿を意識させた。日本政府は、この怒りを治めるために沖縄と北海道に新しい独自の教科書を導入した。アメとムチの政策である。しかし、これを機に思いがけないことが起こった。学校体育の正科として「手」(Tiy)が導入されることになったのでる。

 

 杣山(そまやま)開墾事件 
 明治政府は1879年の琉球処分という琉球侵奪に始まって以来、日露戦争まで西洋諸国に後れをとるまいとしてアジアに進出する。琉球を植民地にした日本は、次は中国に対し1894年日清戦争を起こし、翌年に遼東半島・台湾・澎湖諸島を植民地にし、さらに1904年ロシアに対し日露戦争を仕掛け満州を奪い取り、そして1910年に朝鮮までも植民地としたのである。
 そのような日本政府を相手にして、琉球人は自らのアイデンティティーを守るために様々な抵抗を試みた。この県立一中ストライキ事件の最大の引き金は何といっても沖縄の自由民権運動家の謝花昇と奈良原繁知事との戦いとなった杣山開墾事件である。
 謝花昇は沖縄県初の県費留学生として東京帝国大学農科大学に進学し、その頃中江兆民や幸徳秋水らと交友があり、時の自由民権思想家の板垣退助・田中正造とも親交を深めていた。百姓出身の謝花は1891年27歳の時帰郷し沖縄県技師となり、やがて沖縄人としては異例の出世で唯一の高等官になり、農民のために戦い、参政権獲得のために戦った人物である。一方、奈良原繁は、幕末から明治にかけて活躍した薩摩の武士で、官僚、政治家、実業家であり、静岡県令(知事)となり、1892年に沖縄県知事(第4代)として赴任した人物である。彼は薬丸自顕流の門弟で、剣の達人であり、寺田屋事件では鎮撫使を務め、薩英戦争にも従軍している武士であった。
 やがてこの二人が、沖縄中頭国頭地方の杣山開墾事件と共有金問題で激突することになる。杣山開墾事件とは、琉球王国が解体された後、そこで働いていた役人や武士たちは家禄(給与)をもらえなくなったため、首里城(首里)を離れて地方へ出向き、わずかな畑を耕して生活することになった。そこで、集落の共有地であった山林を首里・那覇の貧乏な旧士族のために払い下げ、開墾させた。しかし、それは村の大事な財産であり、百姓たちの暮らしに欠かせない山であったため、地元農民が激しく反対した。また、この払い下げが実際は貧しい首里の武士たちではなく、薩摩の商人や県の上官に渡ったりして私服を肥やす者がいたため、農民の怒りをかったのである。
 また、共有金問題とは、県知事が貢糖制度、航路補助金、補助米等による換金の差額を隠し財源として積み立て、東京の銀行に預金し、県民にその存在すら隠し、しかもその一部が使途不明金となっていた事実が暴露された件である。これをマスコミで暴露したのが自由民権運動家であった謝花昇であった。謝花は農民のために、沖縄県民のために奈良原知事と戦ったのである。奈良原知事はあらゆる手段で謝花を抹殺しようとした。これに対し謝花は1898年、この実情を時の隈板内閣で内務大臣となった板垣退助に打ち明け、沖縄県知事更迭のシナリオを打ち合わせた。板垣大臣は納得し、奈良原の後に熊本出身の嘉悦氏房を据えることにし、着々とその準備を進めていた。ところが思いがけなく、隈板内閣が同年総辞職に追いやられ板垣も退陣したことから、知事更迭の話は幻に終わったのである。
 その2ヵ月後、謝花は沖縄県を辞職し、「沖縄倶楽部」をつくり、機関紙「沖縄持論」で奈良原知事と対決した。謝花昇のこれら一連の行動は沖縄県民、特に若い沖縄一中の学生に大きなエネルギーを与えたのは間違いない。

 

 「人頭税」廃止運動 
 人頭税とは、15歳以上50歳までの沖縄宮古八重山の男女一人一人にかけられた人間の負担能力を無視した過酷な税で、1637年から実施された。人頭税は、穀物(宮古島では主に粟)または反物にて納税させられ、村の収穫量・身分・性別・年齢によって、税の細かい等級が決められていた。琉球王国では、土地の個人所有が禁じられており、年ごとによって耕作地が割り当てられる制度(地割制)があったが、地域の有力者・豪族等は、この税制や土地制度を守らず、収穫量の大きい土地を独占することもあった。そのため、人頭税の負担は、地位が低い者に多く割り振られるようになって、厳しい税となり、身分や社会的地位によっては重い負担となっていたのである。この税制は、明治時代になり、琉球処分が行われた後も、旧慣温存政策により存続して辛苦にあえいでいた。
1892年宮古島に真珠の養殖のために訪れた新潟県出身の中村十作がこの事実を知り、那覇出身の城間正安とともに農民と相談し、その廃止運動を展開した。1893(明治26)年、指導者である中村十作、平良真牛ほか4人の農民代表が宮古島から東京に上り、帝国議会に陳情を行った。そしてその運動を応援したのは謝花昇たちの仲間であり、また日本の自由民権運動家の人たちであった。特に東京都品川出身で盲目の高木正年代議士は私費でチラシを撒き、「人頭税」の廃止、制度改革を訴え、大きな役割を果たした。それらの運動の結果、1637年から続いた人頭税制度は1903年(明治36年)に廃止された。
 この沖縄県民の大衆運動が当時の沖縄の学生に与えた影響は大であった。

 

 海外移民運動 
 金武村出身の当山久三は沖縄師範学校を出て東京に渡り、淀橋尋常高等小学校の校長をしていたが、自由民権運動、参政権獲得のために奈良原知事と闘う謝花昇に共鳴した。謝花が板垣退助国務大臣と画策した知事更迭のシナリオをもって沖縄に戻る時に、当山も学校長の職を投げ打って沖縄に帰った。その後、奈良原知事更迭のシナリオが幻に終わった事により、目を海外へと向けた。ここ沖縄にいても本土日本人の植民地と化しているだけで、知事から県職員そして警察官まで本土から送られてくるために、沖縄人には将来の希望はほとんど見込めなかったのである。このような状況で、当山は新天地を海外に向けた。当山が奈良原知事の反対を押し切って企画した海外移住の第一弾が、1899年の27名のハワイ移民である。その結果は好成績であった。その後多くの移民を送り、一躍「海外移民の父」と呼ばれたのである。この当山の海外に目を向けた雄姿は、沖縄の若い学生に大きな希望を与えたに違いない。

 

 「手」(Tiy)の学校体育導入 
 この杣山(そまやま)開墾事件、人頭税廃止運動、海外移民運動という3つの出来事は、当時の本土日本の植民地と化した琉球人の心を捉え、特に若い学生の正義感に火をつけた重要な起爆剤であった。これを機に、日本政府は学校教育の重要性を再認識することになり、沖縄と北海道に新しい独自の教科書を導入することになる。
 当初は沖縄も北海道も、全国と同じように『読書入門』(1886年)と『尋常小学校読本』(1887年)が使われていた。しかし、沖縄県用として、郷土の風物や代表的な人物を教材にした『沖縄県用尋常小学校読本』(1897~1904年)が発刊されることになる。この沖縄特別の教科書の導入が、思いがけない琉球の重大な歴史をつくるきっかけを作ろうとは誰も予想していなかった。それは、「手」(Tiy)、「唐手」(Tudiy)の学校体育の正科としての導入であった。沖縄県立一中ストライキ事件が起きたその学校で、沖縄の伝統武術「手」が学校体育の中に導入されることになったのである。


伊波 普猷:沖縄学の父
 
 
 
 野村耕栄(のはら・こうえい) 

沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。

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