空手

第18回さまよえる「手」(Tiy)

2019.08.01

2020.07.16

 講道館の柔道の猛者達を中心に、東京在住の学生達に唐手を指導するために、そして嘉納治五郎館長の薦めによって沖縄への帰郷を延期していた富名腰義珍は、滞在費に困りとりあえず儀間真謹が住んでいる「明正塾」に身を寄せた。そこには、二十畳程の講堂があり、また小さな管理人部屋が存在していた。

 

 嘉納治五郎の影響 
 富名腰義珍は、沖縄県育英会に頼み込んでしばらくの間、臨時管理人として管理人部屋に宿泊し、講堂を利用して明正塾で唐手の指導を始めたのである。幸いにして、当時「明正塾」の舎監を務めていたのは、東恩納寛惇であった。寛惇といえば、沖縄出身で後の「沖縄学」の礎を築いた著名な歴史学者の一人である。彼は、富名腰義珍の良き理解者であり、義珍の『空手道一路』の本の中に「洗随・易経の二義について」の題で寄稿している人物である。かくして日本本土における初めての唐手道場は富名腰義珍の「明正塾」となった次第である。
 富名腰義珍は、東京都水道橋の沖縄県人学生寮の「明正館」に寄宿し、夜間は講道館に出向き、嘉納の指名した高段者と警視庁の武道教師達を対象として指導を行った。義珍が日本に来て唐手術を教授している間に、嘉納治五郎は中国を訪問している。中国訪問をした嘉納治五郎は、中国武術について重要な情報収集・視察を行ったに違いない。そこで、中国武術と琉球の唐手術との比較を行ったのではないかと思われる。何故なら、唐手術の「唐」は中国を意味しており、中国に琉球の唐手術そのものが存在しているのではないかという疑問を持ったからである。しかし、中国武術と琉球の唐手術とは非常に異なる武術であること、琉球の唐手術は中国武術にも優とも劣らない世界に通用する武術であることを確認し、確信したのではないかと思われる。
 中国訪問から帰国した嘉納治五郎は、富名腰義珍に対し、「沖縄の唐手術は、何処に出しても決して恥ずかしくない立派な武術です。こ武術を本土で普及しようというお考えがあるなら、そのためのご協力は惜しみません。必要なことがあれば、どんなことでも遠慮せずに申し出て下さい」という温かい激励の言葉をかけられたのである。これは、嘉納治五郎館長が富名腰義珍に対して、日本本土に留まって唐手の普及に尽力を賜りたい、そのためにはどのような協力も惜しまないから本土に留まってくれという懇願であった。
 また、嘉納治五郎が中国まで出かけて行った結果、「沖縄の唐手術は、何処に出しても決して恥ずかしくない立派な武術です」と自信をもって断言したことに対し、富名腰義珍自身としても自らがやってきた「手・唐手術」が世界で通用する武術であることを確認し、大きな自信になったことは、今後の義珍の唐手人生に重大な変革と決断をもたらしたのは間違いない。
 この強い要請を受けて、富名腰義珍は沖縄への帰郷を断念し、東京に留まることを決心したのである。それは、54歳の義珍にとって、人生の大きな賭けであったにちがいない。故郷、家族を離れて、遠い東京で唐手の指導をして人生を送ると言うことは本当に可能なことであろうか。様々な著名人から指導を頼まれたり、演武を頼まれたりして、チヤホヤされていても、それはマスコミが騒いでいる一時的なお祭りで、そのうちすぐに誰も振り向いてくれないようになるのではないだろうか。唐手を教授して、それで生計が立てられるのであろうか。これまで唐手を教えてこれで生計を立てたという人はいないのである。
 富名腰義珍の心は不安でいっぱいであったに違いない。義珍が嘉納治五郎の進言を振り切って、沖縄に帰郷していたら、唐手の歴史は変わっていたことは間違いない。しかし、義珍は留まることを決意する。そこには義珍の武人としての人間性が大きく彼の意志を決定したのである。武士として嘉納治五郎先生という日本の武道の頂点に君臨する人から目をかけられて、これを断ることは、まさしく武道に反するようなことである。義珍は文武両道に長けた人格者であったことから、嘉納治五郎先生への忠誠を尽くすつもりで武士道を守り、東京に留まることを決意したのではなかろうか。
 決心がついたのは、嘉納治五郎の「唐手」に対する強烈な情熱と温かい支援であったに違いない。

 

 精力善用国民体育の形 
 柔道の嘉納治五郎が沖縄唐手術という柔道とは異質な武術に対して、非常に関心を持ち、自らも熱心に唐手術の技を研究するなど、彼が唐手術を日本本土に普及させる大きな原動力となったことは疑いのない事実である。何故に、これほどまでにして嘉納治五郎は琉球の唐手術に興味を抱いていたのか。当然柔道家として、武道家としての立場から一撃必殺の唐手術に対し、非常な興味を持っていたことは当然である。そして、唐手術の技を柔道の技に採り入れられないか、という具体的な野望もある。しかし、嘉納はそれ以上に様々な日本の競技について「体育」として将来有望と思われる唐手術に興味を持っていたのではないかと考えられる。柔道、剣道、唐手術を体育として将来日本人のために育てられるのではないか、というほのかな希望を抱いていたのである。
 嘉納治五郎は、富名腰義珍の演武を見てから4年後の1926年(大正15年)10月に沖縄を訪問する。沖縄の現地に足を踏み入れ、本場の唐手術がどのようなものであるかをこの目で確認するのが、その主たる目的であった。彼は日本体育協会の役員として沖縄の唐手家の組織である「唐手研究会」の実情を視察に来沖したのである。沖縄県柔道有段者会の招きで沖縄県那覇市へ赴き、そのとき開かれた唐手術大会で、摩文仁憲和(糸東流祖)や宮城長順(剛柔流祖)と巡り合い、唐手術の技法に関する詳しい説明を受けた。そのとき演武を行ったのが、屋部憲通・花城長茂・久場興作・喜屋武朝徳・宮城長順・摩文仁憲和などであった。この時、嘉納治五郎は琉球の唐手術には富名腰義珍がやっている琉球古くからの「首里手」の他に中国拳法の技を「手」に採り入れた「那覇手」があることを認識し、さらに唐手の深さを知ることになる。
 琉球を訪れて、嘉納治五郎は非常に驚いたに違いない。何故なら、富名腰義珍にも優るとも劣らない唐手の達人が琉球にはたくさんいたのである。嘉納治五郎は、これらの琉球の唐手家が日本本土に行き、各地で唐手の教授をしてくれれば、唐手術が一気に日本中に広がり、日本の体育の一つとして君臨できることを悟ったのである。そして、嘉納は摩文仁憲和や宮城長順をはじめ多くの唐手家に日本本土での唐手の指導を促しているのである。
 そして琉球を訪問してから1年後、講道館演武会開催から5年後(昭和2年)に、嘉納治五郎は『精力
善用国民体育の形』を発表しているが、その中にはなんと沖縄唐手術の技である「当て」「突き」「蹴り」「打ち」「上げ」「掛け」「取り」の技法が数多く含まれていたのである。嘉納治五郎は沖縄唐手術の技法を体育の中に採り入れて発展させたいと考えていたのである。

 

 
 
 
 野村耕栄(のはら・こうえい) 

沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。

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