空手

第9回  さまよえる「手」(Tiy)

2018.11.01

2019.11.11

沖縄一中ストライキ事件が起こったのは偶然ではない。異民族が小国を侵略して植民地支配することに対する、一連のマグマ爆発である。明治政府が琉球を略奪するエネルギーと、支配されることを拒否しようとする小民族の抵抗の歴史は、琉球王国の尚泰王が明治政府の強権によって琉球藩主に格付けられた1872年から始まり、1879年に尚泰王が東京に連行され移住させられ、琉球王国を解体して沖縄県が誕生した日をもって終焉したのではない。琉球王国を侵奪された琉球人の多くが激しい怒りの中で抵抗を続けていたことを証明するのが、この沖縄一中ストライキ事件なのである。

 

 激動するウチナー・琉球 
 この沖縄一中ストライキ事件の首謀者は5名であった。当時生徒会長をしていた漢那憲和をはじめ、伊波普猷、真境名安興、照屋広、屋比久猛昌である。これらの人物のほとんどが、後の沖縄の歴史に刻まれる程に活躍することになるとは、当時は誰も知るよしがない。

漢那は数人の同志と相計り、児島校長に対して徹底的に戦うことを誓い合った。そこで彼らは、まず下国教頭や田島教諭に迷惑のかからぬよう退学届けを出し、その上で児島校長に辞職を勧告した。漢那らは他の生徒にも働きかけたので、それからは毎日、何人かずつが退学届けを出してストに参加するようになり、ついには三年生以上の殆どが退学届けを出し、更に一、二年生にも呼びかけたので、結局、退学届けを出したのは百数十名にも達した。このストに、琉球の新聞も同調したので、全島的な大問題に発展した。
 
学校当局は、漢那はじめ五人の首謀者を、文部省令による退学という強硬手段で応じてきた。学校側はまた、生徒の父兄を一人ずつ呼び出して説得しようとしたが、父兄でこれに応じる者は一人としていなかった。漢那たちはストの長期化を予想し、民家を拠点として『同志倶楽部』を組織し、この倶楽部で二学級を編成し、上級生が一、二年生に授業を行うなど、長期戦の態勢を整えた。各地から闘争資金がぞくぞくと寄せられ、その金額は100円にも達した。当時は米一俵が3円、東京遊学でも1ヵ月の学資が5円で足りるという時代である。

 この影響は、やがて小学生にまでおよび、「あんな校長のいる中学校には入りたくない」と言うようになった。ある小学校では、全員が中学校進学を拒否したという。沖縄民衆の強力な支援のもとに行われたこの抵抗に、万策つきた当局は、これ以上悪化させると民衆運動にでも発展しかねないことを恐れ、ついに児玉校長の県外転任を決めることになる。ストはついに成功したのである。

 何故このような弱冠15、16歳の一中学生のストライキが政府という権力を相手に対峙でき、しかも打ち勝つことができたのか。この事件の背景にある、抑圧された琉球人のヤマトゥー・日本国に対する激しい抵抗の歴史を見逃してはならない。この歴史的事件の現場が、後に「空手」を体育の正科として全国で初めて採り入れた学校となったのは奇遇であった。

 日本が琉球王国を廃止して琉球藩とした頃から、王国存立のために戦った当時の琉球の武士達がおり、彼らは「頑固党」と呼ばれた。そして、その急先鋒となったのが、「脱清人」と呼ばれる「清国亡命琉球人」であり、彼らは中国・清に亡命し、清に対して琉球王国を救ってくれるよう懇願して、清の後押しによって琉球王国の存続を画策していたのである。

 しかし、中国・清では、1840年にイギリスからのアヘン輸入禁止をめぐりアヘン戦争が勃発し、それに敗れ2年後の1842年、両国は江寧(南京)条約に調印した。この条約で清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇条項の承認などを與儀なくされた。このイギリスと清との不平等条約は、他の列強諸国も便乗するところとなり、アメリアの望厦条約、フランスの黄埔条約などが結ばれた。

 このようにして朝貢体制を誇示していた中国は、欧米諸国の餌食となり、自分の国を守るのに必死に状況にあった為に、日本の琉球侵略に手を打つゆとりはなかったのである。それでも、脱清人は琉球王国を救うために頑張ったのであるが、その一人に林世功がいる。彼は琉球処分時の「琉球の将来を憂えた志士」たちの一人であり、脱琉球清人である。彼らは、1876年琉球窮状を訴えるため、清国に渡る。79年、福州から北京に上り直訴に及んだが、その努力も報われず、まもなく日清間で「琉球分島改約案」が合意。この知らせを受けた林は、失意の中で80年に北京で自害を遂げた。その亡き骸は北京近郊の通県に葬られたというが、墓所は見つかっていない。享年、38歳であった。
 
 一方、林と行動を共にた蔡大鼎にしても、帰国かなわず異郷の地で果てた。しかし、それでも脱清人がいつか琉球を救ってくれると最後まで期待していたのである。それは脱清人だけではない。琉球人の多くがそれを期待していたのである。従って明治政府に統治されている間も、琉球人の多くが、いつか中国・清が助けに来ると願い続けていたのである。この心情の裏返しが、ヤマトゥーに対する激しい提供となって現れたのである。

 1879年の内務郷・伊藤博文から沖縄県令・鍋島直彬宛て内達が、その全容の核心を物語っている。明治12年9月18日付で沖縄県から提出された「県治上処置振リニ付テノ具申書」に対する伊藤内務卿の「内達」。置県直後、首里・那覇から地方にいたるまで県政ボイコットの動きがあり、とりわけ県政不服従の「盟約書」が明るみに出て、県当局も態度を硬化させ、その首謀者の摘発に乗り出した。県が入手したその「盟約書」(仰日記)について、「就中盟約一条ノ仰日記ノ如キハ、首里旧評定所ノ手ニ成リタルモノト視認ムヘキ形跡ニ付、其根源迄モ推究」した上、旧三司官以下関係旧官吏を容赦なく処罰せよ、と指示している。

 その命を受けて、頑張った初代沖縄県令(知事)・鍋島直彬であったが、民衆の抵抗を沈めることはできずに苦闘していた。1881年、県令・書記官より内務・大蔵両卿への「内申」書には「早くこの職を解いて頂きたい」旨の辞職願が出ているのである。

 県令・鍋島直彬、書記官・原忠順による草創期の沖縄県政は、多くの困難に直面した。第一には三司官以下旧王府支配者および地方役人の県政非協力・妨害、第二には県外から雇った県職員の職務不履行・怠慢、第三には鹿児島の寄留商人の私利追及と県管吏の結託、等々である。これらのことかが複雑に絡んで、県政を麻痺させ、県政への誹謗を誘発し、県令・書記官の辞職を言い立てる者も現れた。この「内申」は、これらの誹謗が事実無根であることを弁明し、汚名を濯ぐために書かれ、県令・書記官連名で内務・大蔵両卿宛に提出された。末尾で「速ニ本職ヲ解カレ候様御取扱被下度伏テ奉懇願候也」と辞職を願い出ている。
 
 毛允良は尚泰王代の三司官であったが、琉球処分で抵抗した、いわゆる頑固党のリーダー的存在だった。頑固党は、日本が中国・清と戦争をすることになった1894年には、清の国を応援していたのである。琉球処分が行われてから15年経過しても、琉球人の琉球王国への願望は消えていなかったのである。日清戦争の翌年に県立一中ストライキ事件が起こった事も偶然ではない。長い間、琉球王国を支えてくれた宗主国の中国・清と戦争をしようなどという愚かな考えは、琉球人には許せなかったのである。しかし、これだけではない。この他に学生達に大きな影響を与えた重要な三つの事が採り上げられなければならない。


漢那 憲和
大日本帝国海軍の軍人、海軍少将、政治家。海軍兵学校27期卒。当時の皇太子(昭和天皇)の欧州遊学の際、御召艦「香取」の艦長を務めた。退役後は地元・沖縄県選出の衆議院議員となった。
 
 
 
 野村耕栄(のはら・こうえい) 

沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。

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