空手

第21回さまよえる「手」(Tiy)

2019.11.11

 富名腰義珍の唐手に対する考えに納得できない東京大学唐手研究会の三木二三郎は、本物の唐手を確かめるために、本場沖縄までわざわざ訪れたのである。
彼は日本の武術である剣道や柔道という観点から琉球の唐手を理解しようとしていたために、富名腰義珍の組手や型に対して納得が出来なかったのではないだろうか。

 

 富名腰義珍師 
 東京大学の三木二三郎は、昭和4年に沖縄を訪問した。その趣旨は、唐手の本場沖縄の唐手事情を実際にこの目で確かめたいということであった。三木二三郎は富名腰義珍の唐手に対して、大きな疑問を感じており、不信感をさえ露わにしている。そのために富名腰義珍の唐手に対する考えや、指導が本当に沖縄唐手家のそれと、どのように異なるのかという疑問を解くために来沖したのである。
 三木二三郎は沖縄に渡り、沖縄を代表する何人かの空手家に会っている。師範学校で唐手を指導する屋部憲通、工業学校の教諭で唐手部長の大城朝怒、嘉手納農林高校で空手を指導する喜屋武朝徳、那覇警察署・商業学校・若狭道場で唐手を指導する宮城長順、首里の儀保に住んでいた首里手・古武術の大家屋比久猛伝である。三木が沖縄に滞在したのは、僅か夏休み期間中で40日前後である。その間に7~8名の空手家に会い、唐手に対する考えや指導を受けたものと思われるが、このような短期間で唐手に対する考えが分かるはずはない。三木は屋比久猛伝から「あなたのパッサイ、ナイハンチは唐手ではなく踊りである」と酷評を受けている。ということは、いかに三木が唐手に未熟であったかを如術に表現している。
 世には評論家という人がいる。評論家には2つのタイプがある。実際その道を極めた者で技術も本物を持つ者、他方、自らは殆んど実戦は出来ないものの、教え方・考え方のみが上手である者である。三木は東京帝大の学生ということで、頭のいい理論家であったに違いない。しかし、空手の技術は未だ「踊り」程度のものに過ぎなかったのである。ところが、驚いたことに沖縄訪問後約半年のうちに、三木は『拳法概説』(高田瑞穂との共著)を出版したのである。『拳法概説』の序言の日付が昭和4年11月となっている。このような未熟な者が、唐手の本を出版するということはいかなることであろうか。
 三木は、『拳法概説』の中で「現今東都における唐手研究に種々疑義を生じた。よって、今夏休暇を利用して、琉球に渡り彼地の大家専門家に親しく相接した」と記し、自分の空手師範・富名腰義珍に対して、あからさまな不信感を露わにしている。富名腰義珍にしてみれば、自分の一門下生から自らの唐手を否定されたも同然であり、而もそのことを堂々と本として出版して師に対抗している様は、富名腰義珍からすれば、全く師に対する忠誠心もない、武道のひとかけらもない破門に値する愚か者でしかなかったであろう。唐手を僅か2~3年習ったからと言って、未だ唐手の「か」も知らない者が、自分の師範に対し、これは違うのではないかとか、あれはこのようにすべきではないか等と意見を申すなどは、全くもって非礼千万であったに違いない。
 三木二三郎は、東京帝大唐手研究会の創案にかかる帝大式拳法試合道具の出現により、斯の如き皮想なる観察は根底より一掃されることとなったと、東大唐手部が試合道具を発案・製作して、これを試していることを述べている。そして、「然るに唐手試合が実現せられ武道として、一進展を見んとするやこれに対し、唐手の堕落なる抽象的言辞を弄し自己の無能をさらさんとする人がある。彼こそは唐手、拳法の精神並びに歴史を理解しない超ドンキホーテである。何故?武道としての唐手を否認せんとする勇者であるからである。」と述べて、暗に富名腰義珍を痛烈に批判している。富名腰義珍にとって、空手は一撃必殺の武道であり、そのために鍛錬するもので、これを競技スポーツとして、空手用具を造って、試合形式にすることに対し、承服できなかった。富名腰義珍は、「空手のことは実際を以って示すのではないと曰く言い難しで、たやすく伝えられないが、興業化、競技化の出来ない所に空手の空手たる所以があるのが特徴であり、防具や試合の成立しない所が空手道の心髄を語るものだ」と述べているのである。

 

 富名腰義珍を批判 
 三木二三郎(東大唐手部)と高田瑞穂(慶應大出身で東大職員)が沖縄訪問し唐手の実態調査を行ったのは、1929(昭和4)年夏であった。当時、富名腰義珍から三木二三郎は防具空手競技を禁止されていたと推察される。何故なら同年(昭和4)12月、富名腰義珍が東大唐手研究会の師範を辞退したのである。その当時、東大唐手部は富名腰の意に反して、防具を開発し、試験的な組手試合を実行していた。富名腰の指導方針は「不闘の武術」であった。そこで、会員達が「防具付組手試合」を強行することに対する抗議の師範辞退だったのである。
 富名腰義珍師範の指導を無視して、防具付組手試合を強行した東大唐手部は、結局高田瑞穂・三木二三郎を中心として、防具付組手に突き進んでいく。このことは、唐手に全く未熟な者が「インターハイ」や「国体」等という大会を目指して、指定形と寸止め組手に明け暮れるのと同じように、競技用空手形や組手試合に出場する現在の大学や高校生の空手部と全く似ている。つまり、空手を全く知らない未熟者でも、2~3ヶ月逆突きの練習をすれば、誰でも防具付組手試合には出場できるのである。これがいわゆる誰でも出来るスポーツ空手なのである。飛んだり跳ねたりして、防具付組手が上手になったからといって、この人が本物の武道空手をしている訳ではない。単なるスポーツをしているだけなのである。富名腰義珍は唐手がこのような単なるスポーツになることに異論を唱えたのである。
 三木二三郎は、「型において又実戦において唐手なるものは何時も前の手が防御、後の手が攻撃になっていると説明する人あるも私たちは大なる謹聴を払わない。又私達には変手、死手、活手等の区別的説明はあまり有用でない。何となれば受けんがために受けるのではなく、攻撃せんがために受ける意識を有するからである。私は、敏速力を大とし、攻撃力を小とする。この見地からするときは突き、受け、蹴りの方法即ち拳、猿ぴ、脚の使用法は、自然と従来の型におけるそれと、東都に於いて約八年間無批判的に行われ来たりし方法と異ならざるを得ない」とし、富名腰義珍の指導する突き、蹴り、受けは間違っているという批判を公然と行っているのである。
 突き・蹴り・受けは、唐手の基本であるからにして、これを批判されたら、その人の空手のすべてを否定されることと同然である。富名腰義珍からすれば、空手の意味さえわからない若輩、未熟な者が何十年も空手を鍛錬してきた沖縄の最高峰の空手家に向かって、君の空手は間違っていると言われるのは、甚だ滑稽であり、そのような馬鹿げた学生・門下正を指導する気にはなるまい。


屋部憲通
 

 
 
 
 野村耕栄(のはら・こうえい) 

沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。

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