空手

第11回さまよえる「手」(Tiy)

2019.01.01

2019.07.05

何故沖縄武術「手」が学校体育の正科として導入されることになったのか。そして、その嘱託指導員として何故糸洲安恒がその重責を担うことになったのか。そこには、近代化に遅れまいとする当時の日本政府の激動の海外政策が背後にあったことを見逃してはならない。そして内務省と軍部が推進した施策、たとえば「大日本武徳会」や「愛国婦人会」の設立趣旨を見ると国民一体となって海外進出に突き進もうとしていた事実が浮き彫りにされる。そのような大きな渦の中に沖縄武術「手」が大きくかかわっていたのである。

 

 大日本武徳会の存在 
 沖縄県立一中ストライキ事件が勃発し、沖縄県民の人権運動に発展していった一連の学生運動は、政府に沖縄と北海道における新たなる学校教育の重要性を認識させるきっかけを作り、独自の教科書とカリキュラムの導入を余儀なくさせた。このことによって新たなる沖縄の空手歴史が作られることになる。つまり、この沖縄独自の教科書導入によって沖縄武術「手」(Tiy)が学校教育の中で教授されることとなったのである。
 沖縄独自の教科書の中には、沖縄の歴史的人物などが紹介されるなど、沖縄の児童生徒にとって親しみのある内容となっていった。そして、さらに独自のカリキュラムとして候補に挙がったのが沖縄武術「手」であった。沖縄武術「手」を学校の体育の授業として教えてはどうかという案である。何故このような考えが出てきたのか。それは、当時の日本政府の対外政策と深くかかわっていたのである。つまり日本は、ヨーロッパ諸国がアジア・中国に進出してアジアの植民地化を進めることに対して危機感を抱き、対抗して中国・アジア進出にすべき舵を取ったのである。1870年から征韓論が主張され、1874年の『宮古島島民台湾遭難事件』による台湾出兵は、明治政府が行った台湾への軍事出兵であり、明治政府と日本軍が行った最初の海外派兵で、牡丹社事件とも呼ばれている。そして、1879年に琉球王国を解体処分して日本の一部に組み入れ、1894年日清戦争により勝利をおさめ植民地を拡大していった時代である。そのような時代背景にあって内務省の主導で1895年創設されたのが「大日本武徳会」である。
 大日本武徳会は、日本の武道の振興、教育、顕彰を目的とし設立された財団法人であり、武徳の涵養とそのための武術の奨励、それによる国民の士気を振興することを目的として設立された。
 武徳とは、「大和魂トカ、尚武ノ氣象トカ、愛國ノ精神トカ云フト同ジコト」であり、武徳を養成する手段として、剣術・柔術などの武術が奨励されたのである。武術教育による精神鍛錬とそれを支える団体の組織化が趣旨である。まさに戦争体制を整えるための教育である。このことについて、明治維新後内務省職員であった奈良原繁沖縄県知事が大いに賛同し、推進する役を担ったのである。

 

 糸洲安恒は手だけの人物ではない 
 当時沖縄には剣術や柔術というものはほとんど無く、武術の奨励といってもすぐには無理である。しかし、薬丸自顕流 の剣の達人であった奈良原知事は沖縄の武術「手」を見逃すはずはなかった。早速、文教局を呼んで「手」を学校の体育として行うことを提言し、その指導嘱託員として糸洲安恒の指名を告げたのである。糸洲門下の「手」の使い手は、軍隊の入隊試験に3名も合格させるなどの実績を有し、その名前は広く知れ渡っていたからである。糸洲と奈良原は年齢も近く、「手」術と剣術という異なる武術ではあっても、向かっている目標は同じ武術の道を究めようとするいわば同士であった。奈良原知事は糸洲より3歳若いので知事が糸洲を呼んでいろいろ意向を聞いて、十分指導力があることを確かめた後決めたものと思われる。二人は泡盛を酌み交わしながら、学校教育について、沖縄の武術「手」について、軍隊教育についてなど等いろんな意見を交わしたものと思われる。
 糸洲安恒は単なる手だけを教えている人物ではない。彼はかつて琉球王国のとき、難関のコウ科挙に合格し、双紙庫理(ウソーシグリ)・書院の右筆相附(副書記)として王府に勤めはじめ、後には右筆(書記)にまでなった高学識の人物である。琉球王国の双紙庫理とは、知行、褒賞、工芸や宮中のことを職掌とする官庁およびその長官名である。下庫理、書院、納殿、小細工奉行所、貝摺奉行所、厩方の各役所を管轄した。したがって、糸洲安恒は歴史に詳しく、中国の状況に通じており、また武芸にも詳しかったのである。そうでなければ、当時70歳にもなる高齢者に武術の指導を頼むわけが無いのである。そのとき奈良原繁は67歳であった。奈良原繁知事の説得に糸洲安恒は快く引き受けたと思われる。このようにして1901年に首里尋常小学校に体育の正科として「手」の授業が始まったのである。
 ついでながら、奈良原繁知事がもうひとつ力を入れたのは「愛国婦人会」であった。愛国婦人会は、近代における日本で最初の全国的規模の婦人団体であった。日本国内にとどまらず、朝鮮・台湾・樺太・満州・南洋諸島など日本の植民地のみならず、サンフランシスコ・ハワイ・バンクーバーなどにも地方本部や支部を広げていた。また愛国婦人会は、二十世紀の初年に創設され40年以上にわたって存在した婦人団体であり、最盛期には700万人以上の会員を持つ、世界的に見ても大きな婦人団体であった。

 

 安全な学校用の「手」に変える 
 愛国婦人会は、内務省と軍部指導のもとに1901年(明治三十四)に結成されたのであるが、内務省出身の奈良原繁知事には内務省からじきじきのお願いがあり、これに同意した知事は1904年に愛国婦人会沖縄支部を設立した。奈良原繁沖縄県知事が顧問を務め、管子知事夫人が支部長を、後に知事に就任する日比重明氏の松子夫人が副長となって、設立発起会を677名の参加の下、挙行したのである。
 愛国婦人会規則では、「本会は戦死及び準戦死者の遺族を救護する事、及び重大なる負傷者にして、廃人に属する者を救護するを以て目的とす」となっている。戦場の男たちを、留守を預かる女性たちが精神的に支えることをねらいとしたものである。つまり、内務省および軍部は大日本武徳会の設立により、男たちを戦場へ行き戦う精神を養い、愛国婦人会の設立により、女たちを戦場で戦死したり負傷した遺族を救護して国民全体で戦時体制を整える流れであった。そのような状況下にあって沖縄の武術『手』は、学校教育の中に採りこまれていったのである。
 これを知ってか知らずか、糸洲安恒は学校で「手」の指導を始めた。少なくとも奈良原繁知事の意向を十分に認識した上での了解であったはずである。しかし、学校で武術「手」を教授する場合、自分の自宅道場で「手」を教えるのとはまったく訳が違う。これまで誰一人として集団による武術の鍛錬を教授した人がいない。空手の指導というものは、師範と弟子が1対1で教授するものであり、しかも他人に見られないように、雨戸を閉めて稽古を行っていた。それが、公開の場で、しかも大勢が一緒になって「手」の稽古をするなどということは、その当時は全く考えられなかったのである。
 そもそも武術は個人が自らを鍛錬して敵を殺傷するための技の習得である。しがたって、個人の呼吸で突き、蹴り、受けの技を決めなければならない。しかしながら、集団でそれを行うと個人の呼吸は殺されて、全体の呼吸に合わせて技を繰り出すことになる。これは武術の真髄からかけ離れてくる。いわば集団体操である。糸洲安恒は、このことを相当に悩んだに違いない。また、教える対象が一般男子ならまだ問題は少ないが、小・中学生に教えるのであるから、教え方を工夫しなければならない。糸洲は自宅道場では、昔から伝承された武術型やカケダメシ(実戦)の技を教えているが、それを学校で教えるには危険すぎたのである。糸洲は、これまでの「手」の型を多少変えることを決心する。つまり、危険な技を省いたり、変更したりして安全な学校用の「手」に変えたのである。


糸洲安恒
 
 
 
 野村耕栄(のはら・こうえい) 

沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。

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