空手

第14回さまよえる「手」(Tiy)

2019.04.01

2019.05.10

沖縄唐手術が日本本土に紹介される重要な理由が存在したことを認識する必要がある。それは、日本海軍と沖縄唐手術との出会いである。この出会いがなければ沖縄唐手術が当時の日本武道の中枢である柔道の講道館において紹介されることはなかったのではないかと思われる。当時の世界最強といわれていたロシアのバルチック艦隊をも撃破した日本海軍と沖縄唐手術との出会いとはどのようなものであったか。その時代背景はいかに。

 

 沖縄「唐手」(Tudiy)と、日本海軍 
 なぜ日本海軍が沖縄唐手術にたいして、特別な関心をもったのか。そのような日本海軍を取りまく世界情勢はどのようなものであったのか。
 沖縄空手が日本本土に渡って、広く武道として普及した背景には、西洋諸国のアジア進出と日本のアジア防衛という重要な歴史的因果関係が背景に存在していた。即ち、西洋列強が中国をはじめアジア諸国を植民地化していくことに対し、日本は自国の防衛と中国・朝鮮さらにアジア諸国の防衛という大きな防衛上の戦略を掲げ、富国強兵大東亜圏政策を展開したのである。
 丁度この頃、沖縄空手が日本海軍の目にとまり、軍隊における心身の鍛錬として注目されたことによって、空手は日本本土に渡ることとなる。
日本軍隊が富国強兵の政策をとった理由として、イギリスやオランダ等ヨーロッパ諸国が中国・清をはじめ、インドなどアジアの国々を侵略して植民地化していったことが背景にある。
 イギリスは1600年に東インド会社を作って、インドから多くの物品を搾取するようになり、1840年には中国・清にたいしてアヘン戦争をしかけ、中国・清を降伏させて、1842年に南京で不平等条約を締結させ、中国の5港の開港、香港割譲、多額の戦争賠償金をもとめて、事実上の植民地化をおこなった。このような、ヨーロッパ諸国の動きに対して、日本は強い懸念を表し、次は日本がヨーロッパの国に侵略されるのではないかという疑念から、アジアを西洋諸国に奪われてしまわないうちに日本もアジアに進出すべきであるという意見が強かったのである。
 1856年、徳川幕府は「幕府講武所」という陸軍を創った。そして、1873年に徴兵令を交付し国民皆兵を建前として20歳以上の男子を兵籍にいれ、3年間兵役につかせた。1878年(明治11)体操伝習所が文部省管轄のもと設立された。そして、1893年海軍兵学校で柔道が正科となった。そのような時世にあって、日清戦争(1894年8月~1895年3月)は勃発した。これは日本の近代史上、初めて経験した対外戦争であった。戦争の原因は朝鮮半島にあった。
 当時の世界は、帝国主義の世界で、列強の陰謀と謀略が他国に対する意思であり、侵略が国家の欲望であると言われた時代であった。朝鮮半島を巡る当時の状況はというと、中国・清は朝鮮を属国と考えていたし、また、ロシアは、朝鮮に対し野心を示していた。日本は、自国の安全を保つために朝鮮の中立を望んでいた。朝鮮の中立を保つため、日本と清国の勢力の均衡をはかろうとしたが、清国は暴慢であくまで朝鮮に対する己の宗主権を固執していた。ロシアも又朝鮮に対し保護権を主張していた。帝政ロシアはすでにシベリアをその手におさめ、沿海州、満州をその制圧下におこうとしていた、その余勢を駆ってすでに朝鮮にまで影響を及ぼそうという勢いを示していた。

 

 国家が崩壊寸前 
 日本は「朝鮮の自主性を認め、これを完全独立国家にせよ」と主張していた。朝鮮半島が他の大国の属国になると、玄界灘を隔てるだけで日本は他の帝国主義勢力と隣接せざるを得なくなる。このため、1885年(明治18年)日本は全権大使、伊藤博文を天清に送り、天津条約を締結した。天津条約の要旨は、「もし、朝鮮国に内乱や重大な変事があった場合、両国はもしくは、そのどちらが派兵するという必要が起こったとき、互いに公文書を往復しあって十分に了解をとること。乱が治まったときは直ちに撤兵すること」ということであった。この条約によって日本は「朝鮮の独立を保持」しようと考えた。
 しかし、朝鮮の李王朝はすでに五百年も続いており、官僚腐敗と国土の荒廃、更に清国・ロシアの脅威によって、国家が崩壊寸前で、自らの力で運命を切り開く能力はなかった。
 その頃、朝鮮では東学の乱がはびこっていたが、やがてそれは農民一揆の色彩を帯びてきた。
 1894年6月2日「甲午農民戦争」が起こり、朝鮮政府軍を度々破り、朝鮮政府は宗主国清国に内乱鎮圧のための出兵を要請した。もしこれを許せば、清国に先手を打たれ朝鮮における日本の発言権は、永久に消え去るであろうとして出兵した。その根拠となったのが1882年(明治15年)、朝鮮李王朝との間に結ばれた「済物浦条約」であった。
「済物浦条約」は「日本公使館警備のため兵員若干をおき、これを護衛する」とあった。1894年6月12日、早くも日本軍は1個旅団を仁川に上陸させた、この兵力を楯に「清国への従属関係を絶ち、さらに日本軍の力によって清国軍を駆逐してもらいたい」という要請をするよう朝鮮政府に働きかけたが、朝鮮政府は清国が日本よりはるかに強国であると信じていたため、この要求を受け入れることをためらっていた。しかし、7月25日ついに朝鮮政府はこの要求に屈し、清国兵の駆逐を要請する公文書を出した。7月29日日本軍第1旅団は牙山・成歓の清国軍陣地を猛攻して平城へ敗走させた。

 

 欧米列強の権益がからむ 
 一方、日本海軍連合艦隊は7月23日佐世保港を出港し、第1遊撃隊が豊島沖で清国北洋艦隊と遭遇し、清国側が実弾を発砲し、海戦となる(豊島沖海戦)。連合艦隊の「浪速」は逃亡する清国北洋艦隊の「済遠」を追う途中、清国兵を満載した英国船「高陞号」に停船を命じたが、それを無視したため、撃沈した(高陞号事件)。英国は激怒したが、後で国際法に照らして合法であることが判った。この一連の戦いは「朝鮮政府の依頼による」という形がとられたが、8月1日日本政府は、対中国・清に宣戦布告を発した。
 9月17日、黄海海戦で日本連合艦隊は勝利し、黄海での制海権を確立した。陸軍第2軍は遼東半島に上陸し、金州、大連を攻落し、旅順に向かう。清国海軍・北洋艦隊の拠点、旅順は、黄金山砲台、饅頭山砲台、鶏冠山、二竜山、松樹山、椅子山などの大堡塁をめぐらし、中央には白玉山堡塁をもって固めていた。旅順は「守るに易しく、攻めるに難し」という港であった。日本軍は、陸上と海上から、これを攻撃し、11月21日陥落させた。
 日本連合艦隊は、もうひとつの北洋艦隊の拠点である、威海衛を攻撃し(威海衛海戦)、1895年(明治28年)2月13日清国は降伏した。
 日本は、眠れる獅子といわれた大国・中国を破ったのである。1895年(明治28年)4月17日、日清講和条約=下関条約が成立し、2億両の賠償金、遼東半島、台湾、澎湖列島割譲、朝鮮の領土保全を得た。丁度その頃、沖縄においては一中ストライキ事件が起きていたことは前述した。
 日清講和条約の内容に、欧米列強は大きな関心を寄せていた。それは、アジアの小国・日本が大国の清国に、どの程度の要求を突きつけるかということと、一方では列強の権益が日本の進出によって脅かされることへの危惧でもあった。最も利害が絡んでいたのは、帝政ロシアであった。すでに、シベリアの西の入り口であるチェリャビンスクから太平洋艦隊の根拠地ウラジオストックまでの鉄道建設に着手していた帝政ロシアにとって、隣接する中国東北地方に日本が進出してくることは、一大難件であった。
 ロシア太平洋艦隊の主力艦船はウラジオストックの結氷期には、避寒のため長期にわたって長崎港に投錨するのが慣例となっていたが、日本政府は外国艦船の同時2艘以上の寄港停泊を禁止したため、それが不可能となった。このことは、帝政ロシアにとって冬季の東アジアに軍事的空白が生まれることを意味し、長崎に変わる投錨先を探さなければならなかった。このとき帝政ロシアが目に付けたのが、清国が軍港として整備した旅順であった。その旅順が日清講和条約で日本に割譲されれば、帝政ロシアの海軍力は、冬季結氷時期には著しく低下することになり、その戦力は大きく崩れる。


戦艦松島
 
 
 
 野村耕栄(のはら・こうえい) 

沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。

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