空手

第22回さまよえる「手」(Tiy)

2019.12.01

2020.05.11

 東京大学唐手研究会の三木二三郎等が自らの師範である富名腰義珍の唐手を真っ向から否定して突き進もうとしていた唐手は、一体何だったのか。そして、その発想は何処から生まれたのだろうか。「型」だけの繰返しに毎日明け暮れる富名腰義珍の唐手に本物の武道性を見つけることが出来なかった、というのもその理由の一つである。

 

 帝大創案防具の開発 
 三木二三郎は、富名腰義珍の唐手を型法修練至上主義と言って、それを打破していくことを目標とし、帝大創案防具の開発に情熱を注いだ。三木は試合道具を開発して、唐手試合が実現することが唐手の進展になり、真の武道になると主張したのに対し、唐手を試合化することは唐手の堕落である、と富名腰義珍は諫めたのである。
 武術は戦いから生まれ、戦いがなければ武術は生まれない。戦い人の生きる道である武道は武術を通して生まれてきた。そして、型は一つ一つの武術の技を集めて体系化、様式化したものである。闘い(試合)は武道につながり、型も武道に繋がる。従って、型ばかりやっていることに武道性がないと言い切ることは出来ない。かといって、闘い(試合)をやっているから、武道性が高いとも言えない。ただ、柔術は乱捕りの試合形式を取り入れて柔道にし、剣術は竹刀による防具付きの試合形式を取り入れて剣道にして、それぞれ武道を名乗っている。
 唐手術も一撃必殺の武術であるならば、それを試合形式にしてこそ、武道としての唐手道を名乗ることができる、と考えたのが三木二三郎であった。ただ、「決死の戦い」と所謂「試合」は全く異なることから「試合」の方法によっては全く武道性を欠くことがあり、ここに武道性が強く問われることになる。
 琉球に於ける唐手術の鍛錬は、巻き藁と型である。この巻き藁と型を繰返し鍛錬することにより、唐手術を自分のものにしていく、これが昔からの町道場の唐手であり、鍛錬方法なのである。だからこそ、富名腰義珍はそれにこだわったのである。しかし、そこには何か足りないものがあることも確かである。自分の鍛錬がどれほどなのかを試すことが出来ない。そこで、出てくるのが試し割である。瓦を5枚、10枚と正拳で割ったり、角材を腕や足で折ったりすることにより、自らの力量を確かめるしかなかった。それでも、飽き足らない者は、お互いの試合相手を見つけて「カキダミシ」(掛け試し)を挑んだのである。このように考えるとき、三木二三郎が主張する「試合」も大事な鍛錬ではある。しかし、何もつけないでカキダミシをするならまだしも、剣道の防具を付けて、唐手をやろうという発想には富名腰義珍は賛成できなかったのである。

 

 掛け試しのルール 
 ところで、唐手の試合化を三木二三郎が初めて思いついたわけではない。琉球の「手」の中には、昔から「掛け試し」というのがあった。これはいわゆる現代でいう防具なしの実戦組手のことである。
 琉球の武士は「手」(Tiy)の鍛錬方法として、まず「型」をやり、型をやりながら、直接師範がお腹、腕、足などの各部を突いたり蹴ったりして鍛える「当て身」をし、型の分解である「約束組み手」をやり、時には実戦組手である「掛け試し」をして、最後に古武道棒、サイ、ヌンチャク、トンファー等をして一連の稽古を閉めるのが習わしであった。このとき、「掛け試し」は顔面・金的を外し、相手に怪我をさせないことがお互いの暗黙の了解事項である。しかも相手の力量に合わせて行い、相手に怪我などをさせてはならないというのが紳士協定である。これを必守できる者だけが道場において「掛け試し」が許されるのである。
 このように琉球における組手に関しては昔から実戦組み手である「掛け試し」が存在していたのである。この「掛け試し」は非常に危険であることから、門外ではやってはいけないと師範から強く禁止されていた。しかし、門外においても「掛け試し」の試合は数多く密かに行われていた。ここにいくつかの事例を紹介することにする。

 

 松村宗棍の「掛け試し」 
 拳聖・松村宗棍の「掛け試し」は有名である。佐久田繁著『空手名人列伝』からその内容を一部紹介しよう。内容が多少異なるのは、他の長老から聴いた話が少し異なるからである。
 松村宗棍は首里城すぐ側の山川村で松村地頭職の家で生まれた。彼は、「手」(Tiy)を佐久川寛賀の弟子・真壁朝顕に師事した。いわゆる首里手小林流の継承者である。彼は後に首里王朝に入り、王様の護衛官になったのであるが、彼が若い頃、与那原村に住む女武士ウメとの「掛け試し」の話は今でも語り継がれている。与那原の地頭代の娘ウメはこれまで男どもを何人も倒し、敵なしであった。もし彼女を倒した男がおれば、ウメを嫁にあげてもいい、という父の地頭代の言葉のとおり、そこら辺にいる男どもは相手にならなかった。その噂が松村の耳に入った。松村は勝負することを決心し、「掛け試し」の日時と場所とを友人に頼んでウメに申し込んだ。「掛け試し」は相当な自信が無ければ仕掛けられない。道ですれ違いざま小手うちや肘打ちを仕掛けた途端に相手の裏拳一発にやられて終わり、ということもある。相手が声をかけずにいきなり挑戦してくることもあり得るが、名乗りを上げての「掛け試し」の場合は相手の力量が図られるので一発で勝負がつくことが多い。
 「掛け試し」は誰にも見つからないように夜間行われるのが習わしである。指定した夜9時、村はずれのウタキ・御願所に行くとそこにはウメが待っていた。ウメは紫の布地で顔を包んだ忍びの姿で、もしかすると今夜で「掛け試し」は終わりかもしれない、と思いながら試合の前の緊張感に包まれていた。
 一方、松村は、ウメの力は大の男3人を相手にするような豪腕であることを考え、接近戦は避け早く掛かり、一発勝負以外にない。女が大切にするのは、自分の容貌だから顔面を守るすべは研究しているだろうから、足技で勝負しようと考えていた。
「ウメか」「ハイ。お待ちしておりました」「たいそうな女サムレーとか」という挨拶を交わした後、「掛け試し」は始まった。二人は構えて、次の瞬間、松村の回し蹴りの右足が上がった。同時にウメの左拳が松村の顔面を捉えた。ウメが左利きだとは知らなかった松村はウメの左拳一撃を顔面に喰らい、無惨にも後ろに突き飛ばされ仰向けに倒れてしまった。ウメは松村が立ち上がって飛びかかってくるだろうと身構えていたが、そこで松村は両手をついて、参りましたと頭を下げたのである。ウメは松村が頭を上げる前に姿を消した。「松村、敗れる」という、この衝撃的なニュースは翌日首里の町中を駆けめぐった。
 しばらくたって、松村は地頭代の家まで出かけ、ウメに再度の「掛け試し」を申し込んだ。今度は父親の地頭代が立ち会うこととなった。二人は構えた。今度の松村は慎重であった。ウメが右手を前に左手をあごに構えた瞬間、松村の右拳がウメの左乳房を襲ってきた。ウメの左手が松村の突きを払った瞬間、松村の左突きがウメの右乳房を襲った。と同時にウメの右手の払いからの裏拳が松村の顔面をかすめた。ほとんど相打ちである。


組み手に難色を示した冨名腰義珍
 

 
 
 
 野村耕栄(のはら・こうえい) 

沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。

 ご意見・ご感想 

 

気に入ったら、いいねお願いします!