空手

第25回さまよえる「手」(Tiy)

2020.05.01

 沖縄の唐手術が単なる「型」と「巻藁」の繰り返しだけではなく、「カキダミシ」という実戦カラテが長年密かに琉球で行われ継承されてきたことを述べた。
 だからこそ、本部朝基は外人ボクサーを一撃で倒すことができたのである。
 しかし、「カキダミシ」と東都の学生たちが突き進もうとする「試合用組手」とは、全く異なる。

 

 防具付きの試合 
「カキダミシ」は、日頃鍛錬した一撃必殺の技をいか程に自分が修得したかを試すための立会であり、場合によっては生命にかかわることもある命がけの試練の場である。しかし「試合用組手」は、柔道や剣道と同じように勝敗のルールを定め、安全なスポーツとして競技を行うものである。従って、安全防具の開発を競い合っていたのである。
 若い学生たちは、「型」と「約束組手」に飽き足らずに、単式組手、複式組手なる組手方式を編み出し、しまいには真剣組手とか自由組手に突き進んでいったのである。このように組手が次第に流動化して複雑になることに伴って、ほとんど実戦唐手に近づいていくのは当然の帰結である。そうなるとやはり危険の度合いは極端に増大していくことになる。そこで考えられるのが防具ということになる。そして、その次に考えることが防具付きの試合ができないか、ということなのである。
 防具付組手試合を推進したのは東京帝大空手部だけではなかった。立命館大学、拓殖大、慶応大なども同じように試合用空手を目指していた。
 昭和9年頃には、帝大空手部は陸奥先輩を中心にして、毎日型及び試合の研究を継続し、関西大学にては試合用防具として11組を作り、巻藁の鍛錬と試合の研究に専念していることが『空手研究』(仲宗根源和編著、1934)で伺われる。関西といえば、沖縄の空手家、摩文仁賢和が大日本拳法空手術研究会を立ち上げたところである。

 

 宮城長順は試合組手に前向き 
 摩文仁賢和(1889~1952)は、沖縄県首里の琉球王朝時代からの名門の家系で、武勇で名高い鬼大城から数えて17代目といわれる。首里手の糸洲安恒と那覇手の東恩納寛量に師事した。大正7年、宮城長順と相談し「唐手研究会」を発足させた。この研究会には、屋部憲通、花城長茂、知花朝信、宮城長順など当時の那覇在住の唐手家が参加した。昭和3年、賢和は本土に唐手を伝えるために上京し、昭和9年、大阪に養秀館道場を開設する。当時賢和は「摩文仁流」と称していたが、昭和14年に先師の糸洲・東恩納両師の頭文字を取り、「糸東流」を名乗る事になったといわれている。その摩文仁賢和が指導する関西大学においても、防具付試合組手が試行されていたのである。宮城長順は試合組手に前向きであったようであるから、同じ剛柔流の同門の友人である摩文仁賢和も推進したかもしれない。
 摩文仁賢和の門下生であった藤井勲が『空手研究』の中で「拳法修行の方針」という題名で防具付組手について、「防具着用の実習は拳脚の力を思い切って相手に当てることはでき得るが、しかしこの実習では、相手から多く攻撃されない為に多く攻撃する。或いは只勝ちさえすればよいとの為先に修めたる型や、姿勢を崩し、動作を乱し、癖を生じ、或いは不正無理の技に陥り易く、拳法の本旨にそむくものである。」と評価をし、防具付きの組手の試合を厳しく批判している。
 さらに、「防具を着用せずの実習は、型及び受手、単式組手、複式組手、型の分解、真剣組手等に重きを置かねばならぬ。これを練習することによって姿勢なり、態度なり動作の悪い癖を正し、拳法の理合に通ずると共に、体の構えや間合転身等を会得し、攻撃防御を正確ならしめ、精神を籠め、気合いを満たして行うのであるから、その気合及び調子の真味を発揮することができ、心身の上に影響を及ぼすことも亦決して少なくない。故に拳法の修行にはなるべく防具を着用せずして、これが修練を積む事が肝要である」としている。
 つまり、防具をつけない真剣組手等において修行を積むことが、最も重要であると断言しているのである。
 藤井勲は昭和9年に摩文仁賢和から初段の認定証を授与されていることから、摩文仁賢和の門下生も防具付きの試合組手を試行していたことが明らかである。しかし、これらの取り組みは試行錯誤の状況にあったこと、また門下生から良い評価はされていなかったということが理解できる。
 仲宗根源和は『空手研究』の中で次のような内容を述べている。空手は試合ができないものとしてただ型と組手とによる修練を行われてきたが、近年防具をつけての試合を試みる向きがあり、既に帝大の空手部の如きは数年前より防具をつけての試合を研究しつつあったが、未だその成績は公表されていない。防具をつけての試合については賛否両論あるが、剣道が防具をつけてやるのが本式になってしまったように余り防具に重きを置きすぎると、結局空手のいいところを多分に失う恐れがあるが、その点を十分考慮に入れて研究の一部としてならば、防具をつけての試合も将来は相当発達するものと見なければならない、としている。
 昭和4年ごろ帝大で防具付空手試合の研究が始まり、その後5年の間に空手の試合化は関東だけでなく関西にも広がっていて、日本中「空手と試合」についての大きな課題が突きつけられていたことがわかる。そして、未だに防具付空手試合の成果が出ていなかったのである。また、昭和9年10月に行われた慶応大学空手部創立十周年記念大会における大会目次には組手及び組手型演武はあるが、組手試合または防具付組手試合なるものは存在しない。ちなみに、優勝額争奪戦というのがあるが、これは「各自に得意な型を独演して幹事と先輩で採点する」方式で、いわゆる型の試合であった。これは画期的である。しかし、組手にはこのような試合はなかったのである。

 

 大濱信泉の論文 
 型と約束組手中心の沖縄伝来の鍛錬法から脱して唐手試合化への流れは、三木二三郎を中心とする東京帝大唐手部だけにとどまらず、他の大学にも飛び火してそれぞれ独自の試合化を目指していくことになる。それを後押ししたのが、富名腰義珍から唐手術を習った大塚博紀(和道流開祖)や剛柔流の山口剛玄、さらに摩文仁賢和の門下生の澤山宗海など蒼々たる面々であった。そして、彼ら競技唐手推進派は唐手の試合化に異論を唱えた富名腰義珍から離反していくことになる。
 このような時期に、沖縄出身の大濱信泉(早稲田大学教授)は『空手研究』第一号(空手研究社、昭和9年)に「拳と徳」という題目で非常に重要な論文を発表した。これは沖縄人として、同郷の唐手を支える者の一人としての富名腰義珍に対する愛情あふれるメッセージとも取れるものであった。論文は「武術と体育」について述べ、そして空手の試合についても述べている。


摩文仁賢和
 

 
 
 
 野村耕栄(のはら・こうえい) 

沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。

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