空手

第26回さまよえる「手」(Tiy)

2020.05.01

 大濱信泉が空手の論文を発表したのは、ちょうど富名腰義珍が東大唐手研究会の師範を辞退し、しかも門弟が空手の試合化を進めることに対してこれを許すことができなかったその時期と重なるものがある。
 大濱は英国、仏、独に留学した経験から空手もスポーツとして、体育の一部門として発展すべきであると確信したのである。

 

 富名腰義珍に反する論文 
大濱信泉によって、一つの重要な論文が提起された。そのきっかけは、大濱が1931年に早稲田大学空手研究会会長に就任したことである。1929年に富名腰義珍が東大唐手研究会の師範を辞退し、翌年に三木二三郎が『拳法概説』を発表した次の年のことである。大濱は富名腰義珍と東大空手部門下生との確執を空手部を通して、そして『拳法概説』を通して十分に認識しており、そこで沖縄出身者としてまた空手を愛する者として、自らがマチワラ(巻藁)となる覚悟で筆をとったのではなかろうか。1918年、早稲田大学法学部を卒業した大濱は三井物産に入社するも、1920年に弁護士になり、22年に早稲田大学講師に就任した。そして、31年に空手研究会会長、33年には早稲田大学体育会空手部部長に就任し、以後長い空手とのかかわりが始まるのである。そして、その幕開けに重要な論文を堂々と発表した。空手界が大きな変貌を遂げようとするこの複雑で微妙な時期に、しかも、同郷の空手の第一人者である富名腰義珍の意に反するような論文を発表したのである。
 大濱が発表したその論文は、「拳と徳」という表現で、先ず初めに挿話的武勇談という見出しから始まっている。その内容は、次のように述べている。
「数年前一友人から直接聞かされた彼氏の自慢話の一つである。某中央官庁の一雇に過ぎなかった彼氏は、上役の覚えいとも目出度く、めきめき出世して或掛の主任まで取立てらるるに至った。しかし、異数の抜擢昇進が他にも原因があったこととは思うが、とにかく彼の物語るところによれば、同僚の下役共の妬みの因となり、誰云うとなしに敬遠の雰囲気を生じ、ついに二三の陰謀家によって彼氏排撃の筋書きまで書き下さるるに至った。その陰謀というのは、先づ昇進祝賀の宴を催し、表面上敬意を表した上で、その帰途を激撃して袋叩きにし平素の溜飲を下げようとの如何にも他愛ないものであった。
 ところが何れの社会にも密告によって忠誠を致さんとする者がでがちで、この場合にも陰謀の一仆一什を伝えてくれた密告氏があった。そして『御身の一大事、出席見合わせられてしかるべし』との忠言を忘れなかったことは言うまでもない。しかし、彼氏は断然出席を決意し、秘かに拳を握り締めたのであった。
 宴いよいよ酣に入り余興壮んならんとするに際し、彼氏は昂然と立ち上がった。わが十八番の芸當をご披露に及ばんと前置きして、先ず肌抜ぎになって空手の二三の型を演じ、これは琉球に伝わる武術にて、この術を以ってすれば二三十人の敵が一時に襲い来るとも、物の数にはあらずとの註をも附け加えたのであった。その鍛へし筋骨の逞しさ、四肢の動きの敏捷なること、一進一退の物凄さ、変幻出没龍虎博撃の形容はあまりに大袈裟に失するかも知れぬが、兎も角も青白き小役人共の心胆を寒からしむるには十分であった。彼氏は更に空手の拳固の強靭を示さんものをと、拳を振り上げ料亭の柱を二つ三つ衝いてみせた。一衝き毎にさしもの大廈高楼も、ミリミリと音をたてて揺らぎだした。並みいる者、いよいよ怖れを抱き、到底當るべくもなしと観念し、遂に件の陰謀も雲散霧消して、彼氏も幸い事なきを得たとの事である。」

 

 身を護る術と暴を排除する勇気 
 ここまでの記述は、芸が身を助けるという空手道の武芸としての効用を称賛するような内容である。このようなプラスに評価する立場から話を始めることも、空手道の愛好者であるからに他ならない。しかし、これは話の入り口にすぎない。その続きは次のようになる。
「この挿話は武勇伝の一節として聞き流してしまえばそれまでのことである。しかし、彼氏の自慢するが如く芸が身を助けたる体験談として、又空手の効用を物語る例話として、十分傾聴に値するものがあるような気がする。殊に機先を制することによりて戦わずして勝利を得たる機智と単に空拳を振りまわしただけで、数十の敵を降伏せしめたる腕の冴へとに、思わず微笑ましさが感じられ痛快を叫びたいものが覚えられる。しかし私がこの話を持ち出したのは、そうした快味を貪りたいからではない。寧ろこの話を通じて、空手を修る者の心構えに付いて、ひいては体育一般に付いての反省の機会を把らへんが為である。挿話の主人公彼氏が戦わずして勝ちを制したことは、賞賛に値するが、如何なる形式によるにせよ、征服せねばならぬ敵を作った点において、彼氏は既にその徳望を缺くる所があったと謂える。拳固で威圧するよりは、徳望により、畏服せしむることが尊ばるべきことは言うまでもない。しかし、我に缺くるところなくとも、相手方の不明の故にあるべからざるところに、敵が現れることもある。又世には無謀の徒、無法の輩がほっこ跋扈することさへなきを保し難い。従って徳望と威力だけでは処世にこと足りぬ場合がある。降りかかる芥は払い除けねばならず、君子危うきに近寄らずの心掛けも結構だが、ただ逃げることのみでは、卑屈に流るる他はない。従って男らしき生活のために身を護るの術と暴を排するの勇気とが望ましい。」と述べている。
 如何なる形式によるにせよ、征服せねばならぬ敵を作った点において、彼氏は既にその徳望を缺くる所があったと厳しい評価を下すことも忘れていないのである。
 また、身を護る術と暴を排除する勇気との使い分けは場合によっては紙一重である。武術を修める者の究極の困難なこの二者の選択が永遠の課題であるといっても過言ではない。
「君子危うきに近寄らず」という一方において、「見て見ぬふりをして、かかわり合わないように」して逃げていくことは、本当に正義といえるかというこの二つの矛盾は、常に内心の強い葛藤の中でいずれを選択すべきかを自らに問い詰める困難で、かつ非常に重要な決断なのである。
 続いて大濱信泉は「武術と体育」について次のように述べている。
「本来武術は、腕力の用法が攻撃と防御との目的に向かって、技術的に組織化されたものである。発生的に見れば、武術は、常に腕力の行使を必要とする社会事情に刺激せられて起こり、その当初にあっては、攻撃すること防御すること自体が直接の目的であり、第一義的の重要性を持って居た。しかし、法治乃至徳治を実践規範とする現代においては、すべての武術は個人的見地より見れば、早速発生当初の目的を失えるものである。
 現代においては、武術が武術として修練せらるゝ場合に於いても、必ずしも術そのものの実用的価値の故ではない。寧ろそれによって、身心を鍛錬することが目的であって、武術といえども現代においては体育の方法として、文化的価値を有するに過ぎない、仮令ある場合には術の実用化が想像せられ得るとしても、それは稀有の場合に限られるべきものであり、決して普遍的の価値として、又第一義のものとして取り上ぐべきものではない。」と主張したのである。


大濱信泉
 

 
 
 
 野村耕栄(のはら・こうえい) 

沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。

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