空手

第16回さまよえる「手」(Tiy)

2019.06.06

2019.11.11

 八代六郎海軍大佐が率いる海軍練習艦隊は、毎年行われる練習艦隊の遠洋練習航海であり、その途中に沖縄の那覇港に入港したのである。これを歓迎した那覇の少年達が唐手術の集団演武を披露し、海軍将兵に大変喜ばれた。講道館柔道の教官までやった八代六郎海軍大佐は、この少年たちの集団武術演武を見逃すはずはなかった。

 

 甲板にマットを敷いた 
 八代六郎海軍大佐は、明治26年海軍兵学校に柔道科が創設されたときの教官(大尉)で、当時の学生を指導したほどの武道家であったので、唐手術の型を見て、すぐにその特質を見抜いてしまう。初めて見る沖縄の武術は、八代六郎の武道家としての心に深く刻まれ、そして、この武術が海軍兵士の鍛錬術として有用ではないか、と即座に判断する。そこで、乗組員将兵の中から、柔道経験者を選抜し、これを沖縄師範学校の屋部憲通指導武官(陸軍中将の肩書きを持つ)の許へ送り込み、ナイハンチの型を5日間で仕込むよう要請する。
 八代六郎大佐の率いる日本海軍練習艦隊の隊員は、沖縄県立師範学校において唐手術の合宿稽古を行ったのである。このことは、空手史上重要なことである。世界最強といわれたロシアのバルチック艦隊を打ち破った日本海軍が、その海兵隊員の心身の鍛錬方法として採り入れようとしたのが、琉球の唐手術であったからである。これは富名腰義珍が日本本土(東京)において、初めて唐手術を演武した日から12年も前の出来事である。ということは、1910年、唐手術は日本海軍において琉球から日本人に公式に伝播していったとも言える。そして、八代六郎海軍大佐と親しい柔道の嘉納治五郎にその情報が伝わり、1922年の富名腰義珍の東京における唐手演武へと繋がっていったのである。
 そもそも、柔道は明治21年頃から日本海軍兵学校において、講道館分場として鍛錬が始まり、そして明治26年には海軍兵学校の正科として採り入れられたと言われている。
 兵学校に入ると、全生徒は半年間は柔剣道を併習し、併進した後そのいずれかを選んで卒業まで必須であった。卒業までにはほとんどの生徒が有段者となって、巣立ったのである。また、巡洋艦以上の大型軍艦も、それぞれ柔道部を持ち、その後甲板にマットを敷いて寸暇を惜しんで稽古に励んだようである。日本海軍が柔道に果たした功績は多大なものであった。これを仕組んだのはすべて嘉納治五郎講道館であり、その門弟たちであった。

 

 通常の作業着のままでもやれる 
 さて、八代六郎大佐によると、海軍式体操だけでは、艦隊勤務者の体力を保持することは難しい。だが、柔道をやるには稽古着と畳が必要で、おまけに怪我の心配までしなければならない。相撲も同じようなもので、丈夫なまわしと土俵を整えなければ、どうも熱が入らない。それに小型艦船の乗組員のことも考えなければならないから、皆一様にとはいかない。ところが、沖縄の唐手術の場合は、通常の作業着のままでもやれるし、何の道具もいらない。しかも自分一人でもできるし、号令一下全員でもやることができる。だからこんな重宝な武術はないと考えたのである。
 八代六郎大佐が沖縄に寄港した1910年より8年も前から、沖縄に於いて唐手術は学校における体育の正科として、団体でも教えていた。いわば琉球の秘伝武術から沖縄の民族スポーツとして地域で公開された体育武術を日本海軍練習艦隊の歓迎という公式の場で演武することは、より広く一般に普及させるための絶好のチャンスでもあったのである。この集団演武を見た武道家・八代六郎によって、沖縄の武道であり、エスニック・スポーツになろうとする唐手術が、日本軍隊に武術・格闘技として採り入れられ、重要な鍛錬のメニューの一部に取り込まれていこうとしていたのである。
 沖縄空手は、八代六郎という柔道家によって、単なる沖縄の武術から大日本帝国の軍隊訓練用武術として大きな変換を遂げようとしていた。
 沖縄空手は、富名腰義珍の演武を観た嘉納治五郎に見いだされたと一般的に言われているが、嘉納治五郎が「唐手」と出会う10年以上も前に、八代六郎海軍大将は沖縄唐手を優れた鍛錬術として発掘し、それを日本海軍の隊員の訓練に採り入れようとしていたのである。沖縄の「唐手術」に関する情報は八代六郎大将から他の海軍艦隊にも伝わりそして嘉納治五郎を始め講道館柔道家にも伝わっていったものと思われる。

 

 沖縄唐手術の合宿訓練 
 後日、海軍大将となった八代六郎は、嘉納治五郎(講道館長)、山下義昭(海兵柔道教官)、佐藤法賢(海兵柔道教官)、漢那憲和(海兵二十七期・少将)などとの関係から、その後もいろいろな局面において唐手術の発展に寄与した人物であった。富名腰義珍の上京は、沖縄県出身の海軍少将・漢那憲和の激励が糸口となっている。戦艦「香取」の艦長であった漢那憲和は、少将で退役された後、国会議員へ転身し、富名腰の上京後も、沖縄唐手術の発展のために力を尽くした。また、嘉納治五郎の後を継いで講道館の第二代館長になった南郷次郎は嘉納の甥で、海軍兵学校27期の軍人であり、漢那憲和と同期で大佐時代に巡洋艦「香取」の艦長を勤めており、漢那憲和の前任者であった。
 富名腰義珍は、皇太子殿下がヨーロッパ巡行の途路那覇に上陸され、旧首里城正殿前で唐手型の少年合同演武会を見学されたときの指揮者だったのである。また、1912年(大正元年)には、出羽重遠大将の率いる第一艦隊が沖縄中城湾に寄港し、艦隊の将兵達が、沖縄県立第一中学校で沖縄唐手術の合宿訓練を受けたのである。沖縄に寄港する海軍艦隊が二度にもわたって、沖縄の唐手術の特訓を受けたということは、特筆すべきことである。
 以上のように、日本海軍と沖縄唐手術は、日露戦争直後から特別の関係を持っていたのである。日本軍が富国強兵を唱え、大陸に進出していく時代にあって、軍人の教育手段として沖縄の唐手術は大いに役立ち、国策に貢献したのである。
 富名腰義珍は、唐手道について、次のように述べている。「近時唐手道に対しては全国的に深き関心を持つに重り、関東関西は勿論北は北海道より南台湾に至る迄斯道の研究熟勃興し全国武道家又競って之が研究を為さむとするの傾向有るのみならず海外に於ける斯道の研究熱意外に燭にして…(以下省略)」と、台湾に至るまで唐手が普及していることを述べている。
 日清・日露戦争後、そして第一次大戦後における日本人の海外移住者数は、660万人と言われており、そのうち中国に100万人、朝鮮に90万人その他台湾、フィリピン、インドネシア、スマトラ、ベトナム、インド、オーストラリア等の東南アジア全域で約470万人の日本人が30~40年も移住し生活していたのであり、もし沖縄の空手・「手」がこれらの海外から伝播したとしたら、現地に住んでいる人々がいち早く知ることである。しかし、何十年も台湾、中国、朝鮮に日本人が住んでいながら、そのような情報は全くなく、むしろ琉球の唐手術は中国拳法、太極拳、カンフーなどとは全く異なる武術であるという認識しか生まれてこなかったのである。


日本海軍大将・八代六郎(1860年-1930年)
 
 
 
 野村耕栄(のはら・こうえい) 

沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。

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